第18話 同じ日、違う影
「ティリア姉さん、起きてる?」
部屋の外から聞こえてきた少し幼い声にティリアは身を固くする。この部屋は、間違いない、イェツラー家のティリアの部屋だ。まだ胸元に短剣が深々と刺された感触が残っている。それに、耳に残る声――
――まだ楽にしてあげるわけにはいかないよ。
――今度こそ見つけてごらん。本当の幸せを。
……あれは、一度目の人生を終えたとき、ティリアに話しかけてきた声と同じだった。姿は見えない。性別もわからない。どこから聞こえたのかも――現実なのか幻なのかもわからない。そんな声。それはまったく変わらない。
ただ、内容が違っていた。
「ティリア姉さん、まだ寝てるの?」
再び声が聞こえて、ティリアはハッとして声を上げる。
「待って! まだ着替えが終わっていないの」
「あっ、起きてるならいいよ。僕、待ってるね」
少年の声が確かに聞こえる。しかし、そんなはずはなかった。
もしもティリアの予想が正しいのなら、ここはティリアの生家、そして、十九歳の誕生日の当日――つまり、二度目の「やり直し」をしているのだ。
だが、少し違う。自分を「姉さん」と呼ぶ存在は、一度目も二度目も、人生の中に存在しなかった。
彼は一体何者なのか――考えながら身支度を調え、自室の扉を開けた。
――そこに、少年がいる。
「あっ、やっと出てきた! もー、遅いよ。フィーロ兄さんもラウルス兄さんも、もう儀式の間にいるよ?」
「……ごめんなさい。少し、夢見が悪くて」
「これから婚約の儀式なのに? もしかして、兄さんと婚約したくない?」
「そういうことじゃないのだけど……ええと……あなたは――」
「えーっ!? 僕の名前忘れてる!?」
「あ……夢が、現実のようだったから……まだ、混乱していて」
少年はぷくーっと頬を膨らませると、仕方がないなあとばかりにティリアの顔を覗き込んだ。
ティリアよりも頭一つ分下に視線がある。大きな紫色の瞳に、青みがかった髪。彼は――
「僕の名前はシエロ。シエロ・ゾハール。もう忘れないでよ? ティリア姉さん」
「シエロ……」
「さ、行こう! 兄さんたちがお待ちかねだから!」
シエロはティリアの手を取ると駆けだした。ティリアがよく知る屋敷の中を、ティリアの記憶にない少年が駆け抜ける。だが、運命が変わっているなら、それはもしかしたら必然なのかもしれない。
それなら、まずは見極める必要がある。何が変わって、何が変わらないのか。全てはそれからだ。
ティリアはゆっくりと息を吐き、真っ直ぐに前を見据えた。
儀式の間は、記憶と何も変わらない。神聖な白、艶やかな大理石、聖水の張られていない泉と、中央の祭壇。そして、ティリアを待ち受けるフィーロとラウルスの穏やかな表情。
ここに変化はない。けれど――
「ありがとうございます、シエロ。ティリアを起こしてきてくれて、助かりました」
「ううん。兄さんたちがうら若き乙女の部屋に行くのもどーかなって思ってたから」
「ティリアがちゃんと起きてくれれば、呼びに行く必要もなかったけどね」
「兄さんと婚約するのが嫌だからじゃないの?」
「え?」
「……って聞いたら、夢見が悪かったからだって」
「なんだ……」
フィーロは振り回されてがっくりと肩を落とし、パタパタと近づいてきたシエロの頭をがしがしとかき回す。髪が乱れてもシエロは楽しげに笑っていた。まるで兄弟かのように。
……兄弟、なのだろう。シエロ・ゾハールという名前で、フィーロと同じ髪色なのだから。ラウルスもシエロを当たり前に受け入れている。ならば知らないのはティリアだけということになるが。
「ティリア、そろそろ準備を。婚約の儀式が済んだらあなたの誕生日のお祝いをしますから」
「う、うん……今行くわ」
「おいで、ティリア」
優しい笑みを浮かべたフィーロがティリアを呼ぶ。自分のために伸ばされた手を、ティリアは恐る恐る握る。
温かくて大きくて――大好きな手だ。まだ状況はよくわかっていないけれど、その温かさをもう一度感じられるという事実に、ティリアは喜びを感じずにはいられなかった。
――そんな様子を紫の瞳が見つめていることには、まだ気づいてはいなかった。
婚約の儀式の後、フィーロたちと話をした限りでは、彼らの時間が巻き戻っている様子は感じられなかった。過去の思い出もティリアの知るものとほとんど変わらない。
ただその全てに、シエロがいる――ティリアは何も覚えていないけれど。
これがどういうことなのか、と。ティリアはひとり中庭に出て、考える。天には青白い満月が浮かんでいた。本当は、ゾハール家へ移るための荷造りをしなければならないのに、今はまだ、そんなことをする気分になれなかった。
「一体、どうなっているの……?」
部屋から持ってきたケテルのオーブを、そっと手に乗せる。月の光を浴びたそれは、まだ色を持たずに輝いている。このまま祈りを捧げれば、オーブはティリアの魔力を吸って紫色に変化する。そのオーブと自らの血をもって聖域の底に封印されているアインより生まれしゴーレムを封印するのがティリアの役目だ。
そのために、フィーロの手を血で染めなければならない。出来ることなら、そんな未来を変えたい。だが――
「ティリア、何をしてるの?」
声をかけられて振り返る。フィーロだ。頬がわずかに赤く染まっているのは、彼が酒を飲んでいたからだろう。ゆっくりと歩み寄ってくる。いつもよりも少しふわふわとしたその空気感は、彼が心の内に秘めたものを知った今となると、温かな感情と切ない感情とが同時に押し寄せてきて、息苦しい。
「……空を見ていたの。今日は、色々なことがあったから」
「ああ……」
フィーロも微笑んで、ティリアの隣に並ぶ。しかし、彼は慎重に距離を取っていた。近づきすぎず、遠すぎず。ほんのわずかに肩が触れて、微かに体温が感じられるだけ。――きっと最初は、これくらいの距離が適切な範囲だったのだろう。
もう、彼に対してどんな感情を抱いていたか思い出せない。今のティリアの胸のうちにあるのはフィーロの苦しみや葛藤を取り除きたいという気持ち、それだけだ。けれど、無為に自分の知ることを明かせばいいというわけではない。一年後の儀式を変える方法がなければ、再び同じ結末に辿り着いてフィーロを傷つけてしまうだけ。だとしたら、今はまだティリアが全てを知っていることは、フィーロには伝えないほうがいい。
ただ、それでも「あなたの味方でいる」ということだけは伝えたかった。
ティリアはそっと、フィーロの手を取る。彼はわずかに息を呑んだが、何でもないことと言わんばかりに頬を緩めた。
「どうしたの、そんなに甘えて」
「……あなたと一緒にいられて、幸せなの。ずっと……フィーロが、好きだったから」
「……うん」
喉の奥に何かが詰まったようにフィーロは頷いた。それでもティリアは、強い気持ちをフィーロに捧げる。
「これからずっと、一緒にいられるように、私、頑張るから」
フィーロは返事をしなかった。それでも構わない。たとえ今はどうしようもなかったとしても、必ず未来を変えてみせる。
そう誓って、ティリアは強くフィーロの手を握った。
フィーロと別れ、部屋に戻る。あとは荷物を整えて寝るだけ――と、思っていた。だが。
「ひどい人だなあ、ティリア姉さんは」
部屋の前に、シエロがいた。ドアの前で、ティリアを待ち構えるように。
ニコニコと無邪気に笑っている。しかしその気配は決して無垢でも穏やかでもなかった。
「……シエロ」
「はーい。なに?」
「あなたは、一体誰なの?」
その問いに、シエロはニヤリと口角を上げた。




