第17話 二度目の死
儀式を控えた朝、ティリアは、目を覚ましても動く事ができなかった。
――フィーロの腕の中にいたからだ。
大きな腕がティリアを包み込み、あらゆるものから守ろうとするように、柔らかく、強く、抱き締めてくれている。その温度と重みが心地良く、できることなら一秒でもながくここにいたいと願ってしまう。……もう覚悟は決まっているけれど。
思いを重ねた夜から、ティリアとフィーロは同じベッドで寝るようになった。ただ寄り添って温もりを分け合うだけだったけれど、一度目の人生ではこの体温を知らないまま終わってしまったのだ。
でも、運命は変わった。宿命は変わらなかったけれど、得られたものは全く違う。そして、最期の瞬間に抱ける感情もきっと真逆になっている。
幼い頃から好きだったこの人と、こうして寄り添って眠ることができたのだから。
「……起きた?」
甘やかな声が降ってきて、ティリアは顔を上げる。
「うん。おはよう、フィーロ」
「おはよう。よく眠れた?」
「眠れた。フィーロは?」
「……そうだね。よく眠れたよ」
わずかに疲れたような笑みを浮かべ、フィーロはティリアを抱き寄せた。その大きな手のひらが髪に絡められ、そのまま強く引き寄せられる。そうしてティリアをかき抱いた吐息が震えていることを、ティリアは見て見ぬ振りして瞼を閉じた。全身で彼を感じる。
時々使用人の姿を見ることはあっても交流することはほとんどなかった。そんな閉ざされた世界の中で時間を掛けて育ったフィーロへの想いは、最期まで歪むことなく貫かれる。たったそれだけのことがこんなに幸せだなんて考えたこともなかった。
同時にそれがこの先ずっと、フィーロを苦しめる。そのことに対しての罪悪感は、拭えなかった。
それでもフィーロの偽悪の仮面をはぎ取ることは出来たのだ。それでもう、十分だ――
「そろそろ、起きようか。もうラウルスが来ている時間だ」
「うん。お兄様をいつまでも一人で待たせたら可哀想よね」
「あいつなんて待たせておけばいいよ――って、いつもなら言えるんだけどね」
苦笑しながらフィーロがその腕を緩める。ほんの少しだけ名残惜しさを感じながら、ティリアは離れて行く彼を見る。
重たい鎧を脱ぎ捨てたフィーロは、もう寂しさも苦しさも隠そうとはしなかった。それでも柔らかく笑っている。それがティリアだけに向ける笑みだ。
ティリアが起きるのを助けるために、フィーロはそっと手を差し伸べてくれる。
その手をしっかりと握りながら、このままベッドに戻ってしまいたい感情を必死で押し殺した。
テラスにたくさんのスイーツが並び、その豪華さにティリアは想わず目を輝かせる。
「すごい……綺麗で美味しそうなお菓子がたくさん!」
「あなたのために用意したんですよ、ティリア。一日早いですが、誕生日ですから」
今にも泣きそうな顔で微笑むラウルスに苦笑しながら、ティリアは早速クッキーをつまんで口に入れる。
「サクサクで美味しい!」
「そうでしょう? 今朝、早くから買いに行ってきたんですから」
「甲斐甲斐しいな、ラウルス。おまえは昔から妹には甘かったけど」
「おや? フィーロにも十分に甘くしてきたつもりですが」
「どうかな。昔はもうちょっと優しくなかったか?」
「小さい頃のあなたは可愛かったですからね。今はさすがに」
「さすがにってなんだよ」
「ふふっ……お兄様はフィーロにも十分甘いと思うわ。だってこのチョコレート、フィーロが前に美味しいと言ってひとりで食べてしまったものでしょう?」
「うわ、そういうことは覚えてなくていいんだよ、ティリア」
「覚えてるわ。フィーロやお兄様と過ごした時間は、全部」
そう、全部。全部覚えている。
もしもこんな穏やかな時間が一度もなければ、ティリアは世界を壊す決断ができたのだ。独りだけ犠牲になるなんて馬鹿げたことを考えずにいられたのだ。
でも実際には、ティリアの胸の内に広がるのはただただ穏やかで温かくて優しい時間ばかり。それが最期の瞬間、憎しみに塗り替えられたけれど――生き直したおかげで、全ては美しい宝石のような時間に変わった。
それでもう、十分だ。
ラウルスは微かに頬を緩めて、紅茶のカップを口に運ぶ。そうしてゆっくりと飲み込んでから、口を開いた。
「……ずっと、後悔していたんです」
ティリアとフィーロはそんな彼に視線を向ける。
「僕は、ラミーナのことが好きでした……とはいえ、まだ十二の頃のことですから、幼い恋心のようなものだったとは思いますが」
まるで自分を押さえ込もうとするように、ラウルスは右手を胸元に添えて拳を強く握る。それは懺悔のようでもあり、祈りのようでもあった。
「たとえ結末が変わらなくても、彼女にもっとたくさんの幸せを捧げたかった。……だから、ついつい甘やかしてしまうのかもしれませんね」
あらゆる感情を超越したような透明な笑みに、ティリアは笑いながら泣きそうになる。こうしてまた、兄との優しい時間が増えてしまうのだ。それは幸せなことなのか、それとも苦しいことなのか。
「……そう」
フィーロは吐息と共にそう呟くと、お気に入りのチョコをひとつつまみ上げてラウルスの口に押し込んだ。
「ッ!? なにをするんです?」
「俺もきみに仕返しすべきだなって思って。甘やかすばかりで、誰にも甘やかされてないんだ」
「もう、フィーロったら。仕返しじゃなくて、お返しでしょ?」
「仕返しだよ。今までそんなことおくびにも出さずに俺たちを甘やかし続けてきたんだから」
「そう……?」
納得できるような、できないような。不思議な気持ちにはなったが、細かいことは気にする必要もないのかもしれない。要するに、フィーロはラウルスにも笑ってほしいだけなのだ。だとしたら、ティリアもそれに続くだけのこと。
フィーロを真似て、お気に入りのクッキーを手に取る。
「ティリア、あなたまでそんなことをする必要はないんですよ?」
「お兄様、どうぞ。口をあけて」
「ですから、ティリア――」
「観念して甘やかされたらいいだろ? ほら、口開けて」
「……わかりましたよ」
ラウルスが照れくさそうに口を開ける。ティリアはクスクスと笑いながらクッキーを彼の元に運んだ。
「美味しい?」
「ええ、美味しいですよ」
「なら、よかった」
こんなささやかな時間も、思い出の一枚になるように願って。
ティリアも、フィーロも、ラウルスも。このお茶会が終わるまでずっと笑っていた。
――視界はすべて白かった。
純白の大理石の床、真っ白な柱、聖水が張られた泉の真ん中に祭壇があり、月光を浴びている。
ついにこのときがやってきたのだ。ティリアは儀式のために白い神子装束に身を包み、その裾をわずかに濡らしながら、一歩、また一歩と祭壇に近づいて行く。
一度目の儀式のときには、これで幸せになれるのだと信じていた。ここから出て、知らない景色を見に行けることに胸躍らせていた。
けれど今は違う。もう胸は躍らないし、怖い。ここで終わりになってしまうという切なさもある。だけど、胸の内にある幸福感は、決して消えない。
広間の入口で兄が静かに見守っている。そしてフィーロは、神子の心臓を貫く銀の短剣を隠すことなく手に持って、ティリアの前に立った。
「……もうすぐ、時間だね」
「ええ……」
月が天頂に達しようとしている。満ちた輝きを見上げながら、ティリアはケテルのオーブを両手でしっかりと抱えた。
「ティリア」
フィーロの手のひらがティリアの頬に触れる。ゆっくりと顔が近づいて、唇が重なり――互いに触れ合ったまま、彼は囁く。
「好きだよ。これからも、ずっと」
「……私も」
この瞬間で時が止まってしまえばいい、と、一瞬、願った。けれどそれでは何の意味もない。フィーロの生きる世界を守るために、自分は死ぬのだ。それだけは、変えられない。
頭上から注ぐ月光が、魔力を増した。ティリア・イェツラーの二十歳の誕生日。その瞬間、ティリアはケテルのオーブを掲げる。高く、高く。
「ケテルのオーブよ、我が魔力に応え、世界を破壊するゴーレムに、しばしの眠りを」
その瞬間、祭壇に刻まれた円環の紋章がまばゆく輝いた。ティリアの体内に魔力が満ちる。それに応じてケテルのオーブが輝いて、紫に強い光を放ち、そして――
「愛してるよ、ティリア」
銀色の短剣が、ティリアの心臓を貫く。
指先から力が抜けて、ケテルのオーブが落下する。しかしオーブは祭壇に落ちる直前で、フィーロの大きな手が受け止めた。
そうしてそのまま抱き締められる。
「……愛してる」
絞り出すような声に応えて、ティリアは笑った。
ティリアの身体を流れ落ちる血液が、円環の紋章を染めていく。ケテルのオーブから離れた光がその紋章に上書きされ、やがて蔦のようなうねりと変わり、祭壇の下へと潜っていった。
――これでアインより生まれしゴーレムは、再び二十年、深い眠りの底に沈む。
「……きみの命を、犠牲にしないで済む方法があればよかったのに」
暗く閉ざされていく意識に、そんな言葉だけが残った。
――ごめんなさい、フィーロ。
――こんな方法しか選べなくて、ごめんなさい。
――あなたの心を傷つけて、ごめんなさい。でも……
――これで私が生きたことが、あなたの傷として残るなら、私は、報われる。
――本当にそう思ってる?
遠くから声が聞こえる。その声を、ティリアは知っていた。
一年前、ティリアを絶望の淵から呼び戻した、あの声。
――確かに運命は変わった。でも、きみは満足してる?
問われて、ティリアは「そうよ」と言ってやりたかった。けれど、言えない。だって、こんな結末で、本当に満足できるわけがない。
大切な人を傷つけただけで終わってしまう。後のことは投げ出してしまう。そんなの、おかしい。
本当はあの人を、ちゃんと幸せにしたかった。
――じゃあ、まだ楽にしてあげるわけにはいかないよ。
その声は、残酷なまでの明るさで、告げた。
――今度こそ見つけてごらん。本当の幸せを。
そんな声が、聞こえた――ような、気がして……――
***
ティリアはふと目を覚ます。
身体を柔らかく包み込むのは、温かな布団。星座が描かれた天蓋から、シルクのカーテンが揺れている。身体によく馴染んでるのは、それが毎日眠っていたベッドだからだ。
「……え?」
ティリアは慌てて起きあがる。確かに自分は死んだはずなのに、どうして――
そのとき、外から声が聞こえる。
「ティリア姉さん、起きてる?」
――それは一度も聞いたことのない、少し幼い声だった。




