第16話 どうか、あなたの手で
ティリアが真実を知って以来、フィーロはずっと一階にある居間で過ごしていた。昼間、ラウルスが訪ねて来ていたのも――ティリアが決意を固めるきっかけになった会話を聞いたのも、この部屋だ。
フィーロはティリアを部屋の中に招き入れるとそこに座ったらいいソファを指差す。ラウルスが座っていた場所だ。意識してのことなのか、それとも無意識の行動なのか。ティリアは静かにソファに腰を下ろし、ギュッと拳を握る。
「話って?」
フィーロはティリアと視線を合わせないまま、グラスに琥珀色の飲み物を注ぎ、口にする。恐らくアルコールだ。ティリアは飲んだことがないけれど、ラウルスとフィーロが楽しそうに飲んでいるところは何度か目にしていた。いつか一緒に飲んでみたいと憧れていた。
けれど今日は、フィーロがそれを口に運ぶそれが美味しそうには見えなかった。
ティリアは今にも破裂しそうな心臓をギュッと押さえつけてから、フィーロを真っ直ぐに見据える。
「私が小さい頃のこと、覚えてる?」
「小さい頃?」
「私が花を摘み取ってしまったときのこと」
「……ああ」
フィーロは目を逸らしたまま、微かに笑みを浮かべる。けれどすぐに笑みを消して、目を伏せた。
「それが?」
「あなたが、悲しいときには泣いてもいいと言ったから」
「……」
「あなたも泣くのかな、って思って」
――一度目の人生で私を殺した後、あなたは泣いていたのかなと思って。
彼だけは知らない未来のことを浮かべながら、ティリアは問う。フィーロの顔から一瞬だけ感情が消えて、数秒後、嘲笑する。
「きみは泣いてほしい?」
「泣くんじゃないかなって、思ってる」
「答えになってないよ」
「でも、泣くでしょう?」
強引に告げれば、フィーロは苛立ったように眉を寄せ、グラスを傾ける。一気に中身を飲み干すと、次の一杯を注いだ。
ラウルスの言う通り、フィーロは優しい人なのだ。悪人のように振る舞うのは苦手で、酔っ払って誤魔化さなければ正気でいられないのだろう。もしかしたら、ティリアが無知なままでいれば、フィーロも正気を保っていられたのかもしれない。彼の内面を曝く人がいないから、丁寧に仮面を被ったまま、鎧を纏っていられたのだ。
でも、そんなことは許さない。彼の全てを曝くために、今のこの場所に戻ってきたのだ。
「お兄様に頼まれたの。もしも私が神子の役目から逃げるなら、あなたも連れて行ってほしいって」
「……あいつはいつもそうだな。独りで全部背負おうとする」
「もしも……私がお兄様の言う通りにしたら、お兄様はどうなるの?」
「一族の連中に色々言われるだろうな。首都の連中にも……もしかしたら、世界中からも」
「言われるだけ?」
「それだけじゃ済まないのは、無知なきみでもわかるだろう?」
フィーロは吐き捨てるように呟く。確かにフィーロの言う通り、知っている。たくさんの人たちの期待を裏切った人たちがどんな目に遭うか。それはティリアが与えられた物語の中にも描かれていた。
もしかしたら――と、ティリアは思う。フィーロは残される側の気持ちに気づいてほしくて、期待に応えられなかった人の物語を渡したのではないか、と。訊ねても答えてはくれないだろうから、質問したりはしないけれど。
「……私は、本当は、あなたに復讐しようとしていたの」
「復讐、ね」
「その気持ちは変わらない。だって私、あなたのことを……信じてたから。ずっと」
「……」
「信じてた……し、今だって、心からは憎めなかった」
フィーロがわずかに顔を上げ、ティリアを見つめる。そう、憎めなかったのだ。この苛立ちを、腹立たしさを、あんなに意識していたのに、振り上げた拳を下ろすことはできなかった。
彼らの気持ちを知ってしまったからこそ、余計に。
「……教えて、フィーロ」
心からの願いを言葉に乗せる。
「あなたは……私のこと、好き?」
「…………」
好奇心を抑えきれずに過ちを犯したティリアを、フィーロは優しく包み込んで泣かせてくれた。慰めるのでも宥めるのでもなく、思いきり泣くことを許してくれて、ずっと寄り添っていてくれた。その腕の中の温かさが、どれだけ時間が過ぎたとしても忘れられない。彼が何を考えていたのかを知ってしまった今、その想いはさらに強くなっていた。
だからティリアは言葉を震わせる。
「私は、生き延びてほしい。お兄様にも……あなたにも。だから――」
「待って」
フィーロがティリアを押しとどめる。真っ直ぐにこちらの瞳を見据え、フィーロは本当に少しだけ口角を上げた。
「外に出よう。ここは、息が詰まる」
遠くに雷鳴の聞こえる空は、それでも雨は降っていなかった。月も星も見えないから、フィーロが魔術で灯してくれたあかりだけを頼りにして、ティリアとフィーロは並んで歩く。
「……初めてだね」
「え?」
「夜、こうやって、二人で並んで外を歩くの」
「ああ……」
そういえば、そうだったかもしれない。屋敷の中から窓の外を眺めることはあったけれど、こんな夜中に屋外にいたことは記憶にない。
少し湿った空気の中、フィーロはゆっくりと中庭を歩いた。ケテルのオーブに魔力を注いだ噴水や、幼い頃にティリアが花を手折った花壇、それ以外にも、色とりどりの花が植えられ、草も茂り、不思議な形の彫刻もあって、月も星も見えなくても、ここは十分に美しかった。
一歩、一歩、歩を進めながらフィーロはやがて口を開いた。
「俺は生まれてすぐに神域につれてこられて、十五も離れた姉に世話をしてもらった。ラウルスはまだ六歳になるかならないかくらいだったはずだけど、やっぱり俺の面倒を見てくれてたよ。もしかしたら、姉さんよりも大切に」
「……お兄様はそのとき、もう全てを知っていたのよね?」
「うん。俺の先代だったじいさんが、口伝で伝えていたらしい」
「口伝……?」
「喋って教える。つまり、記録を残さない。神子の一族の本当の役目は、どんな書物にも載っていないんだ。万一贄の神子がそれを知って、逃げようとしたら困るからね」
ああ、と、ティリアは頷く。確かにその通りだった。実際ティリアはどうにかこの人生から逃れようと、知識を得ようとしていたのだから。
フィーロはティリアに向き直り、弱々しく笑った。
「何度か書庫に出入りしてたのは、知識を得ようとしたからだろう?」
「……ええ」
「残念だったね。そんなもの、とっくに対策してあったんだ。この儀式が生まれたのは、一番古くて千年前。それから今に至るまでに、何人の神子が逃げようとしたと思ってる?」
「……だから、隠すことにしたのね」
「そう。少しずつ、そうなっていった。死ぬ運命を知らせずに、その日が来るまで穏やかに生活させる。でも、関わる人が多ければやがてバレる。だからこうして『神域』という名の牢獄が出来たんだよ」
ティリアは静かに頷いた。そのことはもう、薄々感づいていた。知らなければ、ここから出て行こうとはしない。実際ティリアは、儀式が終わるまではここにいようと、何の疑問も抱かずに育ってきたのだ。自由になった後のことを夢見て、笑って、大切な人たちと一緒に。
自分が無邪気に笑っているときに、隣にいる人がどれだけ傷ついていたのかも知らずに。
「……世界の誰一人殺さずに済む方法はないんでしょう?」
「そうだね、ないよ。少なくとも、俺は見つけられなかった」
「私一人が死ねば、フィーロもお兄様も生き延びることができるのでしょう?」
その問いに、フィーロはすぐには答えなかった。笑みを消して、俯いて、顔を逸らす。
けれどティリアはそれを許しはしなかった。
「よくも黙っていたわね、フィーロ」
「……ごめん。でも、きみを殺すなんて言えなくて」
「違う」
「え?」
「あなたがずっと、苦しんでいたこと」
フィーロは驚いたように目を見開き、それから苦笑して弱々しく首を振った。
「俺が苦しいのは自業自得だから、いいんだよ」
「だけどあなたは、私が生きているときも……きっと死んでからも、ずっと苦しむ」
「覚悟してた……つもりだった。命を奪うんだ、憎まれるくらいはしないとね」
「そんなことをしても、生き残るあなたの苦しみは変わらないのに」
「生き残るから、だったらせめて――」
「苦しみを背負う覚悟だ、って?」
「……そうだね」
「そうだとしても、憎まれたまま苦しむか――愛されて苦しむかで、意味が違うでしょう?」
ティリアの言葉にフィーロはくしゃりと顔を歪める。ずっと年上の人なのに――それこそ、育ててもらったくらいの年齢差のある人なのに。今のフィーロは、まるで子どものようだった。
「私、あなたを知ったから……憎めなかった」
フィーロがティリアをかき抱く。
「あなたのことが、好きだった。好き。今も好き」
「……やめてくれ」
ティリアもまた、フィーロの背中に腕を回す。
「好きなの! だから、生きて欲しい。この世界で、私があなたを好きだったという事実をちゃんと覚えたままで!」
「やめてくれ!」
フィーロが叫ぶ。それでもティリアはやめなかった。
「儀式をしましょう。世界を生かすためじゃなくて、あなたを生かすために」
「ティリア……」
「あなたを愛した私が、あなたを生かすために死ぬの。あなたはずっと、ずうっと、愛されているから」
「…………」
「どうか、あなたの手で……殺して」
ティリアが告げる。その言葉に、フィーロは力なく返事をした。
「……きみは、酷い人だね」
そう言って彼は、呼吸を乱し、肩を振るわせ――そして、ティリアの唇を塞いだ。
それから、二週間。
――儀式の日は、訪れた。




