第15話 聖女の決断
薄く開いた扉の向こうで、フィーロとラウルスが話している。兄は透明に微笑んで、フィーロはうなだれて。今までになかった空気を感じて、ティリアは胸元をギュッと握り呼吸を殺す。そもそも扉を開けたまま気づかずにいるなんて、彼らがすることとは思えない。あんなに何もかも丁寧に行動する人たちが。
「……もう一度言います」
黙ったままのフィーロに向けたラウルスの言葉は柔らかかった。まるで甘い毒のように。
「あなたは手を引きなさい。神域を離れ、どこか静かな場所で暮らしたらいい」
「……儀式はどうする気だ? たとえ神域を離れたって、俺が死ななければ新しい神子は生まれない」
「僕がいるでしょう。さっきも言いましたが、一度でも二度でも同じこと。この手を血に染めた事実は決して消えることはないんです」
「でも!」
「優しすぎるんですよ、あなたは。昔はもっと無邪気で可愛らしい子だったのに」
「……何も知らない子どもだっただけだよ」
「そうですね……そして、あらゆることを知って、傷ついて――偽悪的に振る舞うようになった」
フィーロは目をそらす。兄の姿を視界から外すように、目を閉ざす。それでもラウルスはじっとフィーロを見つめていた。あの瞳をティリアは知っている。幼い頃、嵐が怖くて泣いていたティリアを抱き上げてくれたときと同じだ。
「婚約者、というのは贄の神子を逃がさないための方便に過ぎません。血の神子だって、二人いるのは万一片方が儀式を行えなくなったときの予備にすぎない。ですから、僕が元気である以上、無理にあなたが手を汚す必要はないんです」
「それできみが贄の神子をまた殺すのか? 自分の妹を? あんなに大切に育ててきたのに?」
「……それも、二度目のことです。僕は既に愛した人を殺している」
ティリアの心臓がギシリと軋む。愛した人――前の生け贄だったラミーナ。婚約者というのは方便だと言ったばかりなのに、彼は何を言っているのか。ティリアは嗤おうとした。だが、ぴくりとも表情は動かず、ただ虚無だけが心の内から湧き出してくる。
「ティリアがこの屋敷を出て行かない以上、二週間後には儀式を決行します」
「……あの子が嫌がっても?」
「出て行かないということは、同意したということです」
「なぜそこまで出来るんだ? おじいさまもおばあさまも、父上も母上も、みんな俺たちを神域に追いやってなんとも思っていないんだぞ?」
「……そうですね」
「首都の連中もそうだ。どんな儀式をしているのか知ってるくせに何も言わない。田舎までいけば誰の犠牲で世界が保たれているのかも知らないんだぞ!? そんな世界を守る意味なんかあるのか!?」
俯いたままフィーロは髪をガシガシと掻きむしる。それは駄々をこねているようにも見えたし、祈っているようにも見えた。しかしすぐに何かを押し込めようとするように背中を丸めて小さく唸る。
ラウルスはそんなフィーロに、もう一度語りかける。
「役目を降りなさい、フィーロ。僕はこれ以上あなたを苦しめるのは忍びないんです」
「……ティリアのことは?」
「贄の神子は、役目を果たせばそれ以上苦しむことはありません。でも、あなたは生き延びる。その苦しみに、あなたが耐えられるとは思えない」
「それじゃあ、妹の命を奪って生き残るきみはどうなる?」
「……それを飲み込んで生き延びるだけです」
「そんなことをされて俺がのうのうと生きられるとでも?」
「そういう人だから、あなたの手を汚すことはできないんですよ」
ラウルスは静かに立ち上がり、フィーロのほうへ歩み寄った。その頭を優しく撫でる。その視線の温かさに、ティリアはそっと視線を外した。
扉から離れる。しかしどこかに行くこともできず、そっと背中を壁につける。
窓の外には美しい空が広がっていた。どこまでも高く、どこまでも澄み渡り、どこまでも行けそうな気さえする青空が。
ゆっくりと足音が聞こえてくる。扉が開き、部屋の中からラウルスが出てきた。立ち尽くすティリアに、彼はフィーロに向けていたのと同じ笑みを向けた。
扉をしっかりと閉ざしながら、ラウルスは小さく手招きをして歩き出す。ティリアは閉ざされた扉を一瞥してから、足音を殺して兄の背を追った。
「私が聞いていること、気づいていたの?」
「そうですね。僕からは見えていましたから」
「……聞かせようとしていたの?」
ラウルスは歩みを止めないまま、少しだけ考えて、頷いた。
「結果的には」
玄関に辿り着き、兄は足を止める。そうして申し訳なさそうに微笑んだ。
「知らなくてもいいことを聞かせたのは、自覚しています。何があっても僕はあなたを殺す気だと、そう宣言しているようなものですし」
「……私を殺そうとしているのは、使命のため?」
「はい」
彼ははっきりと頷いた。もう意志は固まっているのだ。ティリアはギュッと、ドレスを握る。
「もう手を汚さずに、なにもかもを終わりにしようとは思わないの?」
本当はそれが最も幸せな選択となるはずなのだ。死んでしまえばそれ以上苦しまずに済む。確かにその通り。だとしたら、世界中のなにもかもを終わりにしてしまえば、もう誰も怯えずに生きられるはずなのだ。
しかしラウルスはその選択肢を選ばない。
「僕には無理ですよ。世界がどれだけ大きいのかを知って、それを壊すなんて、出来ない」
ラウルスは背を向け、扉に手をかけた。
「臆病者ですみません」
「……明日の朝、私がここから消えていたら?」
「そのときは、諦めます。何もかもが終わる。そういうことだと理解しますよ」
「自分では選ばないくせに」
「ええ。選択をあなたに全て押しつけているだけです」
扉がゆっくりと開かれる。だが兄は、すぐには屋敷を出て行かなかった。
「もうひとつだけ、押しつけても構いませんか?」
「……何を?」
「もしもあなたが世界を終わらせる選択をするなら、フィーロも一緒に連れて行ってほしいんです。彼は優しい人ですから……もう、あなたを傷つけようとはしないはずです」
ティリアは眉間に皺を寄せ、息を吐く。その吐息を聞いてから、ラウルスは屋敷を出て行った。
ゆっくりと閉ざされる扉を睨み付けながら、ティリアはぽつりと呟く。
「そんな優しさ、いらないわよ」
そうして唇を噛みしめた。
胸の奥でギシギシと音を立てる感情を、飲み込みながら。
ティリアが決断したのは、その夜のことだった。
「……フィーロ」
彼が過ごしている部屋の扉の前で声をかける。
「話がしたいの……扉を、開けて」
それからどれだけ沈黙が続いただろう。窓の外には月も星も見当たらない。雨こそ降っていなかったが、ずっと遠くでほんの微かに雷鳴が聞こえる。
じっとりとした重い空気を肺の中に取り込んだとき、ゆっくりと中から光が漏れた。
「……どうぞ、入って」
扉の向こうに、感情を使い果たして疲れ切った目をしたフィーロの姿があった。




