第14話 思い出と痛み
――それは、ティリアが六歳の頃のことだった。
イェツラー家の中庭には、たくさんの花が植えられている。それらの花の名前は、ラウルスやフィーロが教えてくれたからティリアもよく知っていた。花がどのように咲いて散っていくのかも、知識としてはきちんとわかってはいたのだ。
だからティリアは気になってしまったのだ。もしも自分がこの花をちぎったらどうなるのだろうか、と。
色とりどりの花が咲く花壇の前に、幼いティリアはしゃがみ込む。そうして真っ赤な花を一本むんずと掴むとポキリと茎を折った。
もともと生えていた場所から離れ、それでも花は真っ赤な花弁を太陽に向けていた。何も変わらない。茎から離れても花は散らず、綺麗な姿のままだった。
「……枯れたりしないんだ」
「枯れる?」
声をかけられ、ティリアは思わずびくっとする。慌てて振り返ると、そこにはフィーロの姿があった。いつの間に近づいていたのだろう。ティリアは手に持った花を慌てて背中に隠す。
そんなティリアを、フィーロは笑う。
「なんで隠したの?」
「え? え、っと……それは……」
「悪い事したから?」
「…………」
「ティリアはそれを悪い事だと思ったんだ?」
フィーロが近づいてきて、ティリアはそのままぺたりと地面に座り込んでしまった。心臓がどきどきする。背中に隠した花の茎をギュッと握って、花壇と背中の間に隠す。――たぶん、いけないことをした、と思っていたのだ。理由はよくわからなかったけれど。
ティリアの前にしゃがみ込み、フィーロは優しく微笑んだ。
「なんで悪いことだと思ったの?」
「……わかんない」
「わかんないけど、ダメだったなって思ったんだ?」
「だって……」
だって……なぜだろう。ティリアは必死で考えた。たぶんティリアは、最初からいけないことをしていると思っていたのだ。ティリアにやっていいことと悪い事を教えてくれるのはだいたいはラウルスだ。食事のときの作法や、危険なもの、入っていい部屋とダメな部屋、そういうものをひとつひとつ教えてくれた。
でも、花を折るのがダメとは、ラウルスには教えられていない。
「……だって」
それでもなぜか、よくないことをしたな、と思ったのだ。ティリアはじっと考える。なかなか答えは出ないから、ただ俯いているだけになってしまったけれど。それでもフィーロは静かに待ってくれていた。
「……あのね、フィーロ」
「うん」
「花が、途中で命を終えたら、どうなるのかなって思ったの」
「……途中で、終える?」
ティリアは小さく頷く。フィーロは少し考えてから、ああ、と声を漏らす。
「咲いている花を折ったら『途中で命が終わる』と思ったのか」
もう一度ティリアは頷いた。
「花の命が終わるのは、枯れるときでしょう?」
「そうだね」
「だから、折ったら枯れると思ったの。でも……」
「枯れなかった?」
こくりと頷きながら、ティリアは心が軽くなるのを感じていた。フィーロに話すと、わからないことが少しずつわかるようになる。ぐちゃぐちゃになったものを丁寧にほどいて組み直してくれるのだ。だから心の中のごちゃごちゃが整理されてホッとする。
フィーロはそうかと微笑んで、ティリアの隣に腰を下ろした。花壇の前に二人並んで地面に座って。ラウルスに見られたら「お行儀が悪い」と叱られそうだったけれど、フィーロは言わない。むしろ一緒にやってくれる。
「花はね、咲いている最中に折ったとしても、すぐには枯れないんだよ」
「……そうなの?」
「うん。どう説明したらいいかな……花が咲いたときにはもう十分に育っているから、折ったとしてもそのまま命は続いていく、っていう感じ?」
「へえ……」
「だから折ってもそのまま咲き続ける。もちろん、少しずつ枯れてはいくけどね」
彼はそう言いながら空を見上げた。ティリアもつられて天を仰ぐ。真っ青な空に、白い雲が浮いている。優しい風が吹く、いつもと同じ空だった。
「乱暴に扱ったりしたら、結局花の命を奪い取ることになってはしまうけど――」
と、言われてティリアはハッと気づく。背中に隠したままだった花をおそるおそる見てみると、背中と花壇に潰されて、花はぐちゃぐちゃになっていた。
「ああー……やっちゃったね」
「……枯れちゃった?」
「そうだね。潰しちゃった」
赤く開いていた花弁がはらはらと散っていく。これまでに見ていた「枯れた花」はしおれて俯いて茶色になって朽ちていった。
でも今は、瑞々しい赤と緑のままで変わり果てた姿になっている。
「あ……」
今度こそ本当に、花の命を奪ってしまった。まだその美しい姿を見せられるはずだったのに、ティリアの不注意と浅はかな好奇心で全てを奪ってしまったのだ。
喉の奥がチリチリする。胸がぎゅっと苦しくなって、あっという間に感情が駆け上がってきた。ぽろ、ぽろ、と。大きな雫が目から零れる。そんなティリアの様子を見て、フィーロは優しく抱き締めてくれた。
「仕方がないよ。こういうこともある。どれだけ大切にしていたって、傷つけてしまうことはあるんだ」
「でも……私が……」
「うん、きみが、傷つけた」
「う、うう……」
「泣いていいよ。悲しいときには泣いたらいい。罪悪感も、喪失感も、涙が全部洗い流してくれるから」
胸の奥が苦しくて、頭の中がグルグルして、時間が戻ればいいのにと願って――そんな落ち着かない気持ちのことを「罪悪感」とか「喪失感」とかいうのだと、ティリアはそのとき初めて知った。こんなに苦しくて辛いのなら、罪悪感も喪失感も一生出会わずに生きていきたい、と。心の底から願ったのだ。
――あと二週間で、ティリアは二十歳の誕生日を迎える。それが選択するために与えられた猶予の終わりだ。あれから何ヶ月も過ぎたのに結論を出さないティリアに対して、フィーロもラウルスも何も言わない。急かすこともなく、責めることもなく。
花を手折ってしまったティリアが自分の言葉で語り出すまで、フィーロは黙って待っていてくれた。そのときと、同じだった。
彼らが優しい人たちだなんて、最初から知っていたのだ――だったら彼らの気持ちなんて知ろうとせず、自分の運命だけを変えればよかった。
後悔したってもう遅い。
ティリアはゾハールの屋敷の中をひとり歩く。今はもう誰も、ティリアの行動を止めなかった。……そのかわり、誰もティリアの前に姿を現さなかった。
窓の外の花壇には、赤い花が咲いている。鮮やかに、瑞々しく。
その窓を大きく開く。少しだけ冷たい風が吹いて、ティリアの髪を微かに揺らした。
「これから、私は――」
ティリアは呟く。そのときだった。
「……構いません……を……たって――」
ラウルスの声だ。ティリアはハッとして振り返る。しかし兄の姿はない。
その声は、扉の向こうから聞こえる。よく見れば、わずかにだが扉の開いている部屋があった。声が漏れているのはその部屋からだ。
ティリアはそっと歩み寄る。
「僕は既に経験しているのですから。一度でも、二度でも、同じこと」
先ほどよりもはっきりと兄の声が聞こえた。ティリアは更に耳を寄せる。
「だからあなたはもう手を引きなさい――フィーロ」
ラウルスとフィーロが、部屋の中で話しているのだ。
まるで静かな月光のように透明な声が、ティリアに届く。立ち聞きなんて、のぞき見なんて、行儀が悪いと兄に叱られることだろう。それでもティリアはその場を去ることができなかった。
わずかな隙間から、そっと中を覗き込む。
まるで神様のように微笑むラウルスと、うなだれるフィーロの背中がティリアの目に映った。




