第13話 逃げるなら、止めない
まるで感情を失ったような虚ろな目で、フィーロがこちらを見つめている。そこにいるティリアの存在も、もしかしたらきちんと認識していなかったのかもしれない。そのまましばらく静止した後、微かに口元を緩めた。
「どうしたの? また俺のことを殺しに来た?」
その声は震えている。ああ、この人でも動揺することがあるのか――そう思ったら、少しだけ胸の奥が軋んだ。
そっと拳を握ってから、ティリアは真っ直ぐにフィーロを見据える。
「殺されたいと思っているんじゃないの?」
「……どうして?」
「死ぬことができれば、あなたは自分の手を血に染める必要はなくなるでしょう?」
「…………」
ティリアの言葉に、フィーロは再び感情を消す。彼はフッと視線を外し、頭を掻きむしる。
こんなフィーロは見たことがない。
彼はいつだって余裕があって、笑っていて、ティリアから目をそらすことなどなかった。それなのに、今の彼は黒い感情を隠すこともできないまま、浅い呼吸を繰り返している。
心臓が早鐘のように鳴る。今、ティリアは確かに運命の手綱を握っていた。これを勢いよく引けば、間違いなく自分の運命は変わる。生まれてから一度も見たことのない表情をこの目で捕らえて、それを確信することが出来た。
二度、三度、フィーロは深呼吸をする。それでも感情は隠しきれないまま、彼は口を開いた。
「もしも俺が死んだら、次の儀式は誰がすることになると思う?」
「……神子が死ねば、次の神子がゾハール家に生まれるのでしょう?」
「そういうことになってる。けど、そうやって生まれた神子が儀式を行えるのは成長した後だ。だから直近の儀式は生き残っている神子がやることになる」
「……お兄様?」
「そうだよ。だから俺は死ねない」
「なぜ」
「なぜ? くだらないことを聞くな!」
フィーロは声を張り上げる。
「ラウルスがきみを殺すことになるんだぞ!? そんなの認められるわけないだろう!? きみが次の生け贄として屋敷に連れて来られたときに泣いていたラウルスが!」
「え……?」
突然明かされた過去に、ティリアは息を呑む。泣いていた。それは、どういう感情で? ティリアがここに連れて来られたとき、ラウスルは十三歳だったはず。その手は既に血に濡れていて――それから数ヵ月ほどだ。
そんな兄が、一体何を感じていたのか。ティリアには、わからない。
「あ……あなただって、儀式のときに、目の前でお姉さんを殺されて初めて自分の運命を知ったのでしょう? 目の前で、お兄様が殺したのに!」
「だからだよ!」
ダンッ――フィーロが、勢いよく壁を叩く。
身を固くするティリアを、薄暗い瞳が貫く。だからだよ、と――フィーロはまるで唸るように繰り返した。
「あいつは六歳の頃からたった一人で使命を背負ってきたんだ! 自分に優しくしてくれる年上の神子を殺す運命を! 姉さんはもちろん、俺にだって話さずに、独りで!」
叫ぶような声に圧倒され、ティリアは床にへたり込む。フィーロはその場から一歩も動いてはいない。しかし、彼の悲痛な声は真っ直ぐに心臓を貫いて抵抗する気を奪っていく。
「そんな苦しみを、六年間もラウルス独りに背負わせていたんだ……俺にはもう、これ以上、あいつに独りで背負わせるようなこと、できない」
――そんな想像、していなかった。
何も知らなかったフィーロが、目の前で姉を殺されて、そのことでラウルスを憎むのでなく、心を寄せるだなんて。思いもしなかった。命を奪われた人ではなく、命を奪った人のほうに同情するなんて。
ティリアはへたり込んだままギュッとドレスを握る。
「お兄様には、寄り添うのね」
「そうだよ」
「私のことは殺しても構わないと思っているのに?」
フィーロは大きく息を吸い顔を上げる。けれど何も言わないまま――言えないまま、ゆるゆると首を横に振った。
「きみは、生き残りたいんだね?」
「……ええ」
だって、そのために一度失ったはずの命を取り戻してきたのだから。
「きみが死なないことで、世界が破滅に追いやられても?」
「…………世界、というのは、私にとっては知らない場所だわ」
「ああ……そう、か。そうだね……」
……沈黙が、じっとりと足元に広がっていく。身体が鉛のように重くなり、身動きがとれなくなる。空気も重い。息苦しい。まるで生命を求めるように、心音が耳元でばくばくと鼓動する。
フィーロはやがて、小さく笑った。
「……探そうとはしたんだ」
「え……?」
「ラウルスを苦しめて、きみの命まで奪って。そこまでして守るべき世界なのか、って。俺はずっと、そう思ってた。だから探した。ゴーレムを封印する別の方法を」
「み……つ、かった、の……?」
縋るように、ティリアは顔を上げる。だがフィーロは首をゆるゆると横に振った。
「ない。だから、俺はきみを殺すことを選んだ」
「……使命だから?」
「そう。だって、他に方法なんてないんだから、仕方がないだろう?」
「仕方がない、って……」
そんな理由で、殺されるのか。二十年一緒に暮らした――かつて好きだった人に。
納得できるわけがない。それでも、フィーロを責める気にもなれなかった。確かに抱いていたはずの憎しみは、いつの間にか振り上げた手を下ろす先を失っていた。
フィーロがゆっくりと歩み寄ってくる。そしてティリアの前にオーブを置いた。二週間前に彼に奪われたケテルのオーブだ。
「それを壊せば、儀式はできなくなる」
ティリアはそっと、薄紫に染まったオーブを手に取った。
「きみがどうやって真実を知ったのかは知らないけど、予測不可能なことが起こったなら、もう終わらせてしまうのもいいんじゃないかな……俺はもう、選ばない」
フィーロは力なくそう告げると、くるりと背中を向けて部屋を出て行った。やはり鍵は、かからなかった。
このオーブを壊せば、ティリアの目的は果たされる。何も知らずに殺されるのは許せない。ただその復讐心だけで戻ってきた世界だったのだ。その願いが今、達成されようとしているのだ。
けれど自分が知ったのは、ティリアを守るために隠されていた地獄だけ。
このオーブを壊せば、儀式は行えなくなる。ティリアが殺されることもなくなり――アインより生まれしゴーレムによって、世界中が破壊される。みんな死んでしまう。
ラウルスも――フィーロも。
本当にそれでいいの?
オーブを抱き締め、へたり込んだまま、ティリアは小さくうずくまった。
それから、五ヶ月。
二十歳の誕生日を二週間後に控えても、オーブは紫に輝いたまま、ティリアもゾハールの屋敷から外に出ていなかった。




