第12話 世界のために奪う命
ラウルスが感情的になっている姿をティリアは見たことがなかった。子どもの頃、行儀作法を教えてくれるときには厳しいと思うこともあったけれど、決して頭ごなしに叱るというのではなく、何がいけないか、どしたらよいか、丁寧に根気強く教えてくれた。だから厳しい人ではあるけれど、穏やかで優しいと思っていたのだ。
その人の手がナイフを握り、神子の心臓を貫いていた――先ほど見せられた幻影を思い出し、呼吸が止まりそうになる。それに、ゴーレムを封印するための儀式を行うのが二十年に一度ということは――
「お兄様が、儀式をしたの、って……」
「……十九年と七ヶ月ほど前のことになりますね」
「それ、は……だって、お兄様……今、三十二……」
うまく言葉の出ないティリアに、ラウルスはただ薄く口角を上げるだけだった。それはつまり、ティリアの気づいた事実を肯定していることでもある。
今から十九年七ヶ月前。儀式を行った日は恐らく、ラウルスの誕生日はまだ来ていない。だとしたら、当時のラウルスは――十二歳。
心臓を抑え、ティリアは俯く。クラクラした。そんなティリアに、ラウルスは淡々と続ける。
「神秘の力のせいなのでしょう。生け贄となる女子も、生け贄を貫く男子も、二つの家に一人ずつしか生まれません」
「じゃあ、家族も他にはいないの……?」
「いえ、います。僕たちの両親も、どこかで生きているはずです。ただ、聖なる力を持つ者は限られているんです」
「特別な力……ということ?」
「その通り。一代前の神子が命を落とすと、新たな神子が生まれるんです」
「でも、お兄様とフィーロは、年が近いでしょう……?」
「比較的、そうですね。それでも最初の六年間は、僕はずいぶんと年の離れたゾハール家の先代神子と共に暮らしていたんですよ」
ラウルスは指先で銀色の指輪を弄ぶ。
「ゾハール家の先代は、僕が神域に連れて来られたときにはもう六十二歳になっていました。生け贄となった少女は――ラミーナは、まだ八歳だった。僕とラミーナは親の記憶がないままにここに連れてこられましたから、先代に育ててもらったようなものですね」
「……先代が死ぬと、すぐに新しい神子が生まれるの?」
「ええ。女子は二十年に一度と決まっていますが、男子もほとんど間を置かずに入れ替わります。ゾハール家の先代が命を落としたときも、それからひと月と待たずにフィーロがここに来ました」
「それじゃあ、この家に子どもしかいなかったの……?」
「そうなりますね。そのときは、神子の役割を知っていたのも僕だけでした」
「どうして」
「赤ん坊に理解ができますか? 生け贄にも、死ぬその日まで事実を知らせてはいけないことになっていますからね」
ティリアは顔を上げ、ラウルスに何か言おうとした。――しかし、何の言葉も浮かばなかった。兄はどうしてか穏やかに微笑んだままで立ち上がる。どうして笑えるの? お兄様も、フィーロも。そう尋ねたい気持ちが、言葉にはならず、力なく消える。
窓辺まで歩み寄ったラウルスは、ずっと閉ざされたままだったカーテンを大きく開いた。あれほど激しく雨が叩きつけてきていたのが嘘のように、眩しい太陽が空に浮かんでいる。
「前の神子は、フィーロの姉でした。フィーロもよく懐いていた。神子が三人とも幼いというのは、歴史上でも稀な出来事だったようで、僕たちはずっと三人で過ごしていたのですが……」
ラウルスは大きく窓を開き、天を見上げる。
「――楽しかったな」
彼は強く、指輪を握った。
……兄の敬語が取れるのを聞くのも、ティリアにとっては初めてだった。喉の奥がチリチリとして、音が遠くなり、こめかみが痛む。それでもティリアはラウルスの横顔を真っ直ぐに見据えた。
「フィーロ、は……いつ、知ったの……?」
「いつ?」
「……神子の、役目を」
「ああ……」
ラウルスはわずかに口を閉ざしてから目をそらす。
「儀式の当日ですよ。僕が、ラミーナを殺したときに」
当時のフィーロは、まだ五歳。殺された神子とは――フィーロの姉とは、十五歳も離れている。
生け贄の神子は、殺されてしまえばそれで終わり。何も知らずに育てられ、やっと自由が与えられると希望を抱いたその瞬間、人生は終わる。
でも、神子の男子は?
寿命を全うするまで、その役目から逃れることは出来ない。
胸元に添えた手をギュッと握るティリアを、いつの間にかラウルスが見つめていた。穏やかな日差しを浴びた兄は、表情が曖昧にしか見えない。
「お兄様……」
「なんです?」
「なぜ、逃げないの?」
それが最初の疑問だった。ラウルスもフィーロも、無知なティリアとは違って、何もかもを知っていてここにいるのだ。二十年に一度、自分の手を血に染める。その役目を楽しんでいるようには思えない。
それなのに、逃げ出さないのは――
「知っているからですよ」
「自分の運命を?」
「いいえ。この世界で暮らす人々の笑顔を」
その言葉の意図がよくわからず、ティリアは首を傾げる。そうですよね、と。ラウルスは静かに苦笑した。
「僕やフィーロは、神子として首都へ行くこともあります。そこでたくさんの人々を――何も知らない国民の笑顔を、見て、知っている。言葉も交わしたことがあります。彼らは役目を果たしている僕たちに、感謝の言葉や贈り物をくれるんです。その手から、直接、心からの思いを込めて」
ティリアの知らない人々のことを、ラウルスは語る。ティリアが見かけたことがあるのは、お茶の準備をしてくれた人と、この部屋を出たときに声をかけて来た人だけ。でもどちらも笑顔なんて浮かべていなかった。
また、知らないことがある。知らないから、ラウルスの気持ちもフィーロの心もわからない。
「……何もかも、捨ててしまえればよかったのですが」
ラウルスは窓を開け放ったまま、扉のほうへと足を向ける。
「すみません。あなたを育てておきながら、僕には何もしてあげることができません。ただ、あなたがやりたいことを止めるつもりもありません」
「……私がここから逃げたいと言っても?」
「ええ……僕たちはこれまで好きなことをしてきたのです。あなたが真実を知った今、それを許さないのは不公平でしょう?」
背中を向けたままそう言って、兄は部屋から去って行った。……鍵がかかる音はしなかった。
しかしティリアは、その扉を開くことは出来なかった。
「……嘘吐き。好きなこと、してきたなんて」
しかしその批判の言葉は、ラウルスには届かなかった。
その日の夜、遅くになって、隣の部屋の扉が開く。コツ、コツ、と。歩く音が聞こえてきた。
フィーロだ。
ティリアが眠っている間にどこかに行って、今になってやっと戻ってきたのだ。隣の部屋に彼がいないことさえ、気づいていなかったのだけれど。
一体彼は、今、何を想っているのだろう。……そして、自分も。胸に渦巻いているこれは、一体何と名付けるべき感情なのだろう。苦しくて、不快で、たまらない。
ティリアは静かにベッドを降りる。裸足のまま、意識せずとも聞こえてくる心音の高鳴りに今にも崩れ落ちそうになりながら、縋るようにドアノブを握る。
そうしてゆっくり扉を開く。
その音に意識を引かれるように、フィーロもこちらに振り返った。




