第10話 鋭い切っ先を、喉元に
部屋を出ることを許されなくなった後も、フィーロは穏やかな笑みを崩すことなく、態度は何も変わらなかった。
「おはよう、ティリア。今日はよく眠れた?」
朝食を手に、当たり前のように入ってきて、話しかける。そんなフィーロを無言で睨み付けても、彼の態度は変わらない。
「目の下にクマが出来ているね。やっぱり自分が殺されるってわかっていると、眠れなくなるんだ?」
「……眠れると思う?」
「どうだろうな。俺はきみを殺す側だけど、しっかり眠れてはいるよ」
ふざけているのか、挑発しているのか。フィーロのそんな物言いはティリアの心に黒い影を落としていく。
フィーロは朝食の入ったバスケットを窓際の机に置いた。卵とハムのサンドイッチと、リンゴ、温かい紅茶。屋敷の誰かが作ってくれたものを彼は毎日律儀に持ってくる。そしてティリアを手招きした。
「おいで、一緒に食べよう」
「……どうしてそんなことができるの」
「ん?」
「一緒に食べようって。そんなこと、どうして平然と言えるの?」
「監視だよ。誕生日までまだ時間があるのに、餓死されたりしたら困るからね」
フィーロは当たり前のように笑いながらバスケットの中身を机に広げていく。餓死されたら困る、というのはまさにその通りなのだろう。ティリアを失うことになれば、必然的に生け贄を失うことになる。それでは儀式が出来なくなるから困るのだ。
「私が今ここで死ねば、あなたは困ることになるのよね?」
「そりゃね。でも、きみは死なないよ」
「どうして」
「死ぬつもりがあるなら、真実を知ったときにとっくに死んでいるさ。でもきみは生き延びる方法を見つけようとしていた。そうだろう?」
そうに決まっていると言いたげな様子にティリアは唇を噛みしめる。否定はできなかった。一度殺されてしまったからこそ、次こそは生き延びたい。今、ティリアの心を占めているのはその感情だけだ。
フィーロは口角を上げて、笑う。
「いいと思うよ。この先の自分の運命を知って、それに必死で抗おうとする。でも、忘れないで。きみは何百年と続く神子の一族のひとりなんだ。無責任な選択は許されないよ」
「……見知らぬ人のために、あなたは人を殺してもなんとも思わないの?」
「それが俺の役目だからね」
サンドイッチを口に運びながら平然と言い放つ。フィーロにとっては、朝食を口にしながら出来てしまうような話なのだと思い知らされ、ティリアはうなだれる。
そんなティリアを一瞥して、フィーロは窓の外を見た。
「今日は昼過ぎから雨が降るらしいよ。明日の朝まで、嵐になるかもしれない」
それはまるで独り言のような――言い訳のような響きにも聞こえて、ティリアは静かに目を逸らした。
フィーロの言うことは正しかった。生き延びたいと願ってここに戻ってきたのに、自ら命を絶つようなことをするわけがない。
雨粒が窓を叩く。昼過ぎから降り出した雨は、強い風を伴って窓に叩きつけていた。遠くで雷の音も聞こえる。時々見える稲光を、ティリアはベッドの上でじっと見据えていた。
この部屋に軟禁されてから、十四回目の夜が近づいている。ただ無為に流れる時間を、ティリアはどうすることもできない。毎日三度、フィーロが運んで来る食事を口にするだけ。それ以上のことが起こらない日常に、ティリアは痺れを切らしていた。
前にも後ろにも進めないまま無駄な時間を過ごすくらいなら、強引にでも切り裂くしかない。――その覚悟が決まるまで、十四日もかけてしまったけれど。
「ティリア、入るよ」
声がかかり、扉が開く。ランプの明かりが灯る部屋に、いつものようにフィーロが入って来た。夕飯の入ったバスケットを、いつも通り机に置く。
「ねえ、フィーロ」
「ん?」
「……あなたはこのまま、あと半年、同じことを繰り返すつもりなの?」
「まあ、そうだね。そうせざるを得ないというのが正しいけれど」
「そう……」
「不満そうだね。……まあ、当然か」
バスケットを置いたまま、フィーロはゆっくりと歩み寄ってくる。
ティリアは彼の目に触れないように、枕の下に手を入れた。指先に硬いものが触れて、心音がわずかに乱れるのを感じる。
「きみが無知なお姫様のままなら、もっと色々なことを教えてあげられたんだけどね」
「色々?」
「この屋敷にどんな花が咲いているのか。天候によってどんな空が見られるのか。新しく書かれた物語だって、たくさん探して来てあげられたよ」
「……どれも知ったところで私の命は救われないわ」
「そうだよ。知っても知らなくても大差ないこと。でもきみが少しだけ満足できること。その塩梅を考えながら知恵を与えるのは結構大変だったんだから」
うっすらと微笑みながら、フィーロはベッドに腰を下ろす。そうして身を乗り出して、ティリアの頬に手を伸ばした。
「これでもきみを大切にしてきたつもりなんだけどな」
「そうね……無知なまま死ねるように、守ってくれていたのはわかるわ」
「そうだろう? だから――」
「だから、もう私を守らなくていいわ!」
指先に触れていた硬いものを――ナイフを――枕の下から引き出し、その切っ先をフィーロの喉元に向ける。フィーロは大きく目を見開いた。
――死んで、私のために。
その瞬間、フィーロの目の奥がわずかに揺らぐのが見えた。ティリアは思わず息を呑む。指先からかすかに力が抜けた――それが、命取りだった。
「……甘いよ」
フィーロの手が、ティリアの手首を強く掴む。切っ先は彼の喉元を外れ、ほんのわずかに頬をかすめて、ナイフは宙を舞って……落ちた。
その勢いのまま、ティリアはフィーロと共にベッドに倒れ混む。
「驚いたな。まさか、ナイフを持ち込んでいたなんて」
「……どうして」
「非力なきみが、俺を殺せるわけがないだろう? まあ、油断していたのは事実だけど」
握られたままの手首がギシギシと音を立てる。その痛みに、ティリアは思わず奥歯を噛んだ。
それでもフィーロは微笑んでいる。
「俺のことを殺せなくて残念だったね。もう武器は持ち込んでいない?」
「……教えると思う?」
「教えてはくれないか。まあいいよ。俺を殺しても、きみは逃げられない」
フィーロの手のひらがそっとティリアの視界を塞いだ。暗闇に閉ざされ、窓を叩く雨の音だけがバタバタと聞こえてくる。耳障りなほどに。
「……少し眠って。起きたらきっと、落ち着いているよ」
……そんなわけない。私の心は、もう真っ黒に塗りつぶされているのだから――たとえ失敗したとしても、人を殺そうとしたことに代わりはないから。
「安らかな眠りを」
呪文と共に、魔力が流れ込んでくる。その瞬間、ティリアの身体から力が抜けた。意識が遠ざかる。瞼が落ちる。
完全な闇に閉ざされる直前、フィーロの手のひらが離れて行って……瞳が、見えた。
まるで彼が泣き出しそうに見えた気がして。
……そんなはずはない、と、ティリアは必死で自分の見たものを否定した。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか。ティリアはゆっくりと目を開く。
「……目が覚めましたか」
柔らかな笑みを浮かべながら見下ろしていたのは、久しく姿を見ていなかった、兄だった。




