第1話 今からきみには死んでもらう
視界はすべて白かった。
純白の大理石の床、真っ白な柱、広がる泉の向こう側に、無機質な祭壇がある。
ティリアは儀式のために身を包んだ白い神子装束の裾をひらめかせ、静かに泉に足を着けた。くるぶしまでの深さの水はわずかに波打ち、ひやりとした温度を感じながら祭壇へと歩を進める。静謐な空気を感じながら、一歩、また一歩。そうして祭壇に上がると、ティリアは天を仰いだ。
満ちた月が空に浮かぶ。その輝きが、まるで祝福するように聖女と呼ばれる彼女に降り注いでいた。
ティリア・イェツラー。それがこの国の聖女の名だった。間もなく二十歳になる彼女が、その誕生日の瞬間に祈りを捧げれることで、世界は平穏に包まれる。生まれたときからティリアが背負った使命は決して軽くはない。だが、この日のために魔力を研ぎ澄ませてきたのだ。屋敷から出ることなく、広い世界を知ることもなく、ただ空の高さだけを見つめてきた。
けれどそれも、今日終わる。この祈りを捧げれば、自分はこの役目から解き放たれる――失敗さえしなければ。
「ティリア」
名前を呼ばれ、ティリアは顔を上げる。
「緊張してるかい?」
ぴちゃん、ぴちゃん、と、足音を立てて温和な笑みを浮かべた男性が歩み寄ってきた。青みがかった癖のある短髪に、真っ黒な儀式用のローブを纏い、同じく儀式用に用意された杖を手に近づいてくる。裾は水に濡れ、清められ、彼の魔力も高まっていた。フィーロ・ゾハール――ティリアの婚約者だった。
ティリアはギュッと手を握り、ゆるゆると首を横に振る。
「いいえ、決して」
その声が震えたことに、ティリアはハッとして口元を押さえた。フィーロはプッと吹き出して肩を振るわせる。なんて失礼な人だろう。ムッと唇を尖らせて、ティリアはフィーロの腕をはたく。
「仕方がないじゃない! 初めてなのよ、儀式をするのは」
「ごめんごめん。別に、からかったわけじゃないんだ。きみはまだ若かったんだなって思いだしていただけ」
「それって、からかっているのと何が違うの」
頬を膨らませるティリアをフィーロはまた笑う。彼はティリアより七つ年上だ。二十歳の儀式も当然過去に終えている。それに、彼はティリアが物心ついた頃には既に傍にいた。赤子だった頃に彼の腕に抱かれたこともあるらしい。それだけ長い時間を共に過ごしてきてわかったのは、彼が意地悪なことを言いがちな人だということだ。
けれど彼がティリアを最もわかってくれているということも事実だった。ティリアに魔力の制御の術を教えてくれたのはフィーロだった。今日のこの日に向けて、無事に儀式を終えられるようにと、時に優しく、時に厳しく、決して器用とは言えないティリアに根気強く魔術を教えてくれたのだ。
「……大丈夫」
フィーロの両腕がティリアを優しく包み込む。幼い頃から何度もこうして抱き締められた。彼の温もりを感じると、身体の震えも収まっていく。
「きみはずっと、頑張ってきただろう? どんなに難しくても諦めずに何度も訓練して、自分の思い浮かべる通りに魔力が制御できるようになった。だから大丈夫。この儀式は必ず成功するよ」
「絶対、なんて。無責任なことを言わないで」
「いいや、言うよ。言霊、って知ってる? こういうのは言葉に出すことで成功に導くことができるんだ」
「いつもそればっかり」
「そうかもしれない。でも何度も口にするんだ。必ず成功する。世界を救うことができる。きみが背負うには大きすぎるものかもしれない。それでも絶対、大丈夫だ」
「……うん」
ティリアは小さく頷いて、彼の胸元に額を寄せる。大丈夫、必ず、大丈夫。口の中で小さな声で繰り返し呟いてから顔を上げる。
儀式の場に降り注ぐ白い月明かりが、祭壇を淡く輝かせていた。
「はじめようか」
フィーロが紫に輝くオーブをティリアに手渡す。『ケテルのオーブ』と呼ばれるこれは、今日のこの日のためにティリアが祈りと魔力を注いで準備をしてきたものだ。このオーブを天に掲げ、月から注がれる聖なる光を取り込み、祈る。そして赤き光が世界を包めばこの世は平穏に包まれる――長きに渡り、神子を生み出したイェツラーの娘に課された使命だ。
これさえ終われば、私は自由になれる――それが一体どういうことなのか『自由』を知らないティリアには想像も付かない。それでもきっと、楽しいことが待っている。フィーロと共に海を見に行こうと約束をしているのだ。
ティリアは祭壇に刻まれた円環の紋章の真ん中に立ち、月光に向けてオーブを掲げた。瞳を閉ざし、集中し、自分の体内を魔力が巡るのをじっと感じる。冷たい風が頬に触れた。腰まで伸びるティリアの髪が微かに揺れる。小さな足音が聞こえて、ティリアの真後ろにフィーロが立った。大丈夫、必ず、成功する。彼の声が聞こえるような心地がして安堵して、ティリアは一気に魔力を解き放つ。
――瞬間。
「今から君には死んでもらうよ」
「……え?」
焼けるような痛みが、ティリアの背中を貫いた。指先から力が抜けて、ケテルのオーブが落下する。しかしオーブは祭壇に落下する直前で誰かの――フィーロの――大きな手が受け止めた。
……彼の手は、血に濡れていた。
違う。彼だけではない。ティリアのドレスも、深紅の血液に染められていた。背中から真っ直ぐに心臓を貫いた、ナイフのせいで。
「な……ぜ……?」
オーブを手にするフィーロを、ティリアは見上げる。だが、視界が黒に飲まれていく。彼がどんな表情をしているか、ティリアにはわからなかった。――視力が、失われている。
失っている? 視力を? なぜ?
混乱するティリアの頭をフィーロがそっと撫でた。幼い頃から、背負う役目の重さに震えるティリアを慰めたその大きな手で。あの頃から何も変わらない、優しい手つきで。
「儀式だからだよ」
「ぎ……しき……」
「アインより生まれしゴーレムは、世界を破壊しようと狙っている。そのゴーレムを深い眠りに就かせることが神子の役目。そのための贄は――きみの命だ」
「そ、ん……な……」
冷たい祭壇に崩れ落ちる。何も見えないけれど、鼻先に鉄の臭いが漂った。べちゃり、と聞こえたのはきっと、今なお身体から流れ出ている自分の血液なのだろう。
「アインより生まれしゴーレムよ、ケテルのオーブと神子の命をその身に受けて、深き眠りに就きたまえ」
フィーロの魔力が自分に注がれるのがわかる。よく知っている。物心ついた頃からずっと、自分はこの魔力に守られてきたのだ。
違う。守られていたわけではない。
――今日ここで、ここで、殺されるために、私は、わたし、は……――
「悪いね、これも世界を守るためなんだ」
――じゃあ、私の平和は?
「きみの役割は終わりだよ。もう『自由』だ」
――私の自由は?
「ゆっくり、おやすみ」
――……ふざけないで。
ふざけないで、ふざけないで、ふざけないで!
屋敷から一歩も出ることが出来ず、世界の何も知らないまま、これで終わり?
私は一体誰のために死ぬの?
あなたはどうして私に優しくしてきたの?
心臓を貫く瞬間に警戒させないために?
それだけのために、二十年も?
――許さない。
許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない!
絶対にこのまま終わらせたりはしない!
――絶対に。
ティリアの身体が白い光に包まれた。儀式の終わりを告げる光だ。これで世界は救われて、めでたしめでたし。物語の終わりだった。
そんなティリアの頬に、誰かの指がそっと触れる。
――じゃあ、変えてみたら? きみの運命を。
何かが聞こえた――ような、気がして……――
***
ティリアはふと目を覚ます。
身体を柔らかく包み込むのは、温かな布団。星座が描かれた天蓋から、シルクのカーテンが揺れている。身体によく馴染んでるのは、それが毎日眠っていたベッドだからだ。
「……え?」
胸元に慌てて手を当て、持ち上げる。手のひらに血はついていない。身体に傷もついていない。手足も動く。視界もはっきりとしている。外からは小鳥のさえずりが聞こえ、羽ばたく音まで耳に届く。
生きている。
自分は、確かに、生きている。
でも、一体何が――
「ティリア、起きていますか?」
困惑するティリアの耳に届いたのは、自分の名を呼ぶ声だった。




