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第二十八章:罠と知りて踏み込む

罠とわかっていても、踏み込まなければならない時があります。


逃げれば安全。

ですが、逃げ続ければ主導権は永遠に戻らない。


今回は、そんな回です。

結論から言えば、一晩考えてもわからなかった。


ヴァン・ラークは暗い天井を見ながら、何度も思考の筋道を辿り直した。


誰が仕掛けた。どんな手口で。何を目的に。

ルキウスか、マルクスか。それとも大元帥自身か。


頭の中で可能性を並べて、全部を潰して、また並べる。

夜中の三時になっても、答えは出なかった。


(わからん)


わからないことに、いつまでもリソースを割くのは合理的ではない。

ヴァンは目を閉じた。


考えても仕方がない。

いま手元にある駒で、もう一度並べ直すしかない。




翌朝。

ベルンハルトの執務室に入ると、院長は書類を見ながら渋い顔をしていた。


「一晩で気持ちの整理がついたのか」

「ついたというより、いったん見切りをつけました」

「そうか」


ヴァンは椅子に座り、真顔で切り出した。


「ところで院長。向こうからの破談となると、形式上はリンドガルド家の『瑕疵』になりますよね」

「なんだと」


ベルンハルトが怪訝そうに顔を上げる。ヴァンは淡々と続けた。


「あちらは軍務総長、名誉を重んじる家柄です。一方的なキャンセルで『借りができた』状態は、あちらとしても居心地が悪いはず。……ならば、こちらから『補償』を提案して手打ちにするのが、双方にとって最もスマートな解決策ではありませんか?」


「補償、だと?」

「ええ。精神的苦痛への慰謝料、およびスケジュール変更に伴う機会損失。これらを金銭、あるいは『コネクション』という形で清算させてあげる。それが大人のマナーかと」


ベルンハルトは額に手を当て、天井を仰いだ。

長い沈黙が落ちた。


「……お前、振られた翌朝に、相手の罪悪感を人質に取って利益を引き出そうとしているのか」

「感情と利益は別勘定です」

「呆れた奴だ……だが、筋は通っているのが腹立たしい」


ベルンハルトの声には、呆れと共に隠しきれない苦笑いが混じっていた。


「わかった。ワシが大元帥に掛け合い、次の候補を探させる。それを『手切れ金』代わりとする。それでいいな」

「話が早くて助かります」

「早くもなんともない、この計算高い馬鹿者が」


ヴァンは内心で小さく息を吐いた。

この男が笑って骂倒してくるうちは、まだ大丈夫だ。




その後、ヴァンは学院の廊下で『氷の聖女』を捕まえた。


「エレナ、使魔を一匹、貸してくれないか」


エレナは無表情のまま、ヴァンの顔をじっと見た。兄が珍しく自分に頼ってきたことに、唇の端が微かに上がったのを、すぐに隠す。


「はい、兄さん。どこへ飛ばしましょうか?」


彼女はためらいもせず、指先を軽く振った。虚空から、半透明の白い鳥が姿を現し、


「宿屋のアイリのもとへ、座標はこちらで指定します」


「お任せください、兄さん」


短いやり取りだった。エレナは余計な詮索もせず、兄の願いをただそのまま受け入れた。凛とした背中で廊下を歩き去る彼女は、相変わらず氷のように隙がなく、だがどこか機嫌の良さが滲み出ていた。





午前の講義中。

窓際の席で、ヴァンは今日の段取りを脳内でシミュレートしていた。


そこに、ローランが滑り込んできた。

自然な動きで、隣の席に座る。


「少しいいですか」

「授業中だが」

「大丈夫です、どうせ教授の話なんて半分も聞いてないでしょう」


正確な指摘だった。


「商いの話ですが」

ローランは机の上に広げたノートを見るふりをしながら、声を潜めた。


「昨晩、木材ギルドの有力者たちと会食、まあ平たく言えば接待をしてきましてね。話はうまくまとまりました。これで流通の規模を二倍にできそうです」


「昨晩?」

「ええ。西通りの、ちょっと派手なお店で。彼ら、ああいう賑やかな場所が好きなんですよ」


ヴァンは、昨日のリヴィアの様子を思い出した。

(なるほど。彼女が見たのは、接待中の『ローラン』だったわけか。派手な女を侍らせていたのも、客への付き合いというわけだ)


誤解の正体がわかり、ヴァンは内心で苦笑した。

だが、ローランの次の言葉で表情を引き締める。


「ただ、困ったことも一つ。オグラさんのほうから連絡が来まして」


ローランの声がさらに低くなる。


「最近、街の検問が厳しいらしいんです。彼女たちの方から配達に来るのが難しくなったと。しばらくは、こちらで指定の倉庫まで引き取りに来てほしいそうです」


「タイミングが悪いな」

「ええ、確かに」


ヴァンは目を細めた。

(検問か。いや、これは『亜人排斥』の一環だろうな)


帝都では、亜人の商人はただでさえ肩身が狭い。

軍部の誰かが意図的に締め付けを強化すれば、オグラのような『ネズミ』の流通網は真っ先に麻痺する。


「場所は」

「上流区の手前、西寄りの通りを入ったあたりです」

「今日の午後、俺が行くところと大体同じ方角だな」

「そうですか?」

「ちょうどいい。今日、俺と一緒に行こう」

「え、でも午後は必修が」

「サボるぞ」


ローランは一瞬固まり、すぐに、にやりと笑った。


「わかりました」


呑み込みが早い。

それがローランの美徳の一つだと、ヴァンは評価していた。




午後の最初の講義に顔だけ出し、ヴァンとローランは裏口から抜け出した。


校舎の裏手には、屈強な男が二人待っていた。

ベルンハルトが手配した護衛の憲兵だ。


「ヴァン様。お時間通りで」


一人は三十代半ば、歴戦の雰囲気を纏うブルーノ。

もう一人は二十代前半、まだ少し若さが残るディーター。


ローランは二人の顔を見て、すぐに営業用の笑顔を浮かべた。


「お疲れ様です。警護任務、ご苦労様です」

そう言いながら、懐から包みを取り出して二人に差し出す。


「高級ハーブの喉飴です。見回りで喉が渇くでしょう? よかったらどうぞ」

「あ、ああ……すまん」


強面のブルーノが、不意を突かれたように受け取った。

ディーターの方も、「気が利くな」と表情を緩める。


(こいつ、本当にどこで覚えてきたんだ)


権力でも金でもなく、些細な気遣いで相手の懐に入る。

商人の才能とはこういうことかと、ヴァンは感心した。




指定された倉庫の前には、先客がいた。


壁に背を預け、腕を組んでいる小柄な影。

アイリだ。


「遅い」

「ちょうどいい時間だ」

「ボスがそう言うなら、そうだな」


ブルーノとディーターが、アイリを見て反射的に身を硬くした。

狼の耳。

黄金色の瞳。

亜人特有の魔力の気配。


ヴァンは二人を一瞥して言った。


「俺の身内だ。信頼していい」


それだけだった。

二人は短く顔を見合わせ、頷いて剣の柄から手を離した。

命令が偏見に勝った。それでいい。


アイリは鼻をひくつかせた。

「異常なしだ、ボス。魔法の臭いもしねェ。中に人もいねェよ。ただの荷物だ」


扉を開けると、報告通り、木箱に入った魔導部品が積まれていた。

書類を確認し、問題のない正規ルート品だ。


「よし。ローラン、引き取りの手続きを頼む。俺はこの後、もう一つ寄り道がある」

「わかりました。あちらのお二人がいれば安心ですね」


ローランが憲兵たちに視線を向けると、彼らも微かに頷き返した。

喉飴の効果は、地味だが確実に効いているようだった。




倉庫を出て、三人で歩き始めた。


先頭にヴァン。

左右にブルーノとディーター。

背後にアイリ。


目的地は、第二皇子ルキウスの私邸。

帝都の上流区に入る手前だが、ここからはまだ距離がある。


空は晴れていたが、通りの雰囲気はどこか奇妙だった。


「止まれ」


ヴァンが低く言うと、全員が足を止めた。


正面には、一本の路地。

両側を高い石壁に挟まれた、視界の悪い直線。

問題は、あまりにも静かすぎることだ。


「ブルーノ。この辺は普段からこんなに人が少ないか?」

「いえ……ここは上流区への裏道に近い。一般市民は少ないですが、これほど無人なのは不自然です」


ブルーノが眉を寄せ、周囲を警戒する。

若いディーターが補足した。


「先ほど、あちらの方角から煙が見えました。火事の対応で、巡回兵がそちらへ引き寄せられたのかもしれません」


「火事、か」


出来すぎている。

嫌な予感がした。


「アイリ」

「わかってる」


アイリが獣の瞳を細めた。

「魔力結界の匂いがする。薄いけど、確実にある」


ヴァンは路地の奥を見据えた。


(来るな)


迂回すれば安全だ。だが、それでは意味がない。


「三人とも、正直に言え。どこまでやれる」

「私はBランク相当。強化状態ならAランクの下位とも渡り合えます」


ブルーノが即答した。

続いてディーターが少し緊張気味に答える。


「俺は準Bランクです」

「アイリ」

「魔力は完全じゃない。でも、短時間ならBランクの瞬発力は出せる」

「十分だ」


ヴァンは頷いた。


「帝都の真ん中に刺客を配置できる組織は限られる。だが、相手が誰であれ、ここで逃げれば次はもっと周到な罠が待っている」


三人がヴァンを見つめる。


「今日、ここで事を起こせば、すべては『ルキウスの招待に向かう途中』の出来事になる。この襲撃を逆手に取れば、ルキウスへの最大級の牽制材料になる」

「なるほど」


ブルーノがニヤリと笑った。


「つまり、囲まれる前に狩る、と?」


「チッ……ボスにぶっ壊された回路が、まだ本調子じゃねェんだ。詠唱なしじゃ無理だぞ」


「今のうちに済ませろ」


「……ん」


アイリが低く詠唱を始める横で、ディーターが緊張した面持ちでポケットを探っていた。

取り出したのは、包み紙に入った小さなチョコレートだ。

それを口に放り込み、ガリガリと噛み砕く。


「それ、緊張した時に食うやつか」

「は、はい。実家の母が持たせてくれて……味は悪いんですが、食べると少し落ち着くんです」

「半分くれ」

「えっ、でも味が……」

「構わん」


戸惑うディーターから半分受け取り、ヴァンも口に放り込んだ。

砂糖の塊のように甘く、そして苦い。だが、悪くない。


「落ち着いたか」

「……はい、少し」

「ルキウスのところで美味い茶菓子が出るらしい。今日の任務が終わったら、お前たちにも分けてやる」

「えっ、本当ですか!?」

「俺は嘘をつかない」


ディーターの顔がほぐれ、ブルーノも肩の力を抜いた。

アイリの詠唱が終わり、その身体から淡い魔力の光が漏れ出す。


「準備、できた」

「よし」


ヴァンは路地の奥、沈黙する闇を見据えた。

確実に、そこに『いる』。


「行くぞ」


短く号令し、ヴァンはあえて堂々と、死地への一歩を踏み出した。




一方その頃、学院の廊下では。


リヴィアが、エレナの後ろ姿を呼び止めていた。


「エレナ様、少しお聞きしても?」


エレナは足を止めた。

振り返ったその表情は、相変わらず氷のように冷ややかで美しい。


「……なんでしょうか、リンドガルド様」

「この間、ご一緒に歩かれていた男性がいらっしゃいましたよね。お兄様……ですか?」


「……はい」

エレナは短く肯定した。


リヴィアは一度息を吸い込み、核心を問う。


「今、彼がどこにいるかご存知ですか? 少し、お話があって」

「兄なら、今日の午後は先約があると言っていました」

「先約?」

「はい。ルキウス閣下に招かれたと」


リヴィアの思考が停止した。


ルキウス。


(ローラン君も、今日の午後は外せない用事があると言っていた)


(ローラン君が来なかった理由……エレナ様のお兄様が、ルキウス閣下のところへ……そして『ヴァン』も)

頭の中で、何かが、音を立てて繋がった。


三つの点が、奇妙に重なる。


「あの、少し確認したいのですが」


リヴィアの顔から、すっと血の気が引いた。


「エレナ様のお兄様は……綺麗な金髪で、とても優しそうな顔立ちの方……ですよね?」


エレナは、怪訝そうに秀麗な眉をひそめた。


「リヴィア様? どうかしましたか? 顔色が悪いですわ」

「金髪? ローランは、兄の横にくっついている金髪の不真面目な商人のことでしょう」


リヴィアは両手で口を覆い、震える足で一歩、後ずさった。

呼吸がうまくできない。


「ごめんなさいっ……失礼します!」


リヴィアは翻り、廊下を駆け出した。

病弱な身体が悲鳴を上げていることも忘れ、ただ全力で。




【第二十八章・終】

そして、学院側も少しずつ歯車が噛み合い始めました。


ここから先は、さらに事態が動きます。


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