第7話「契約夫の本音:君は僕の“保険”だ」
夜の初め、鍋蓋は二度だけ鳴らした。
昼の戻し儀で音を使いすぎた家は、少し静けさを取り戻す必要がある。音は薬であって、過剰投与は舌を鈍らせる。私は火を弱め、スープは温め直しに留めた。
ユリウスは書斎に私を招いた。机の上は、奇妙な整い方をしている。書式の美ではなく、壊れる順の美。
引き出しの手前に、古い革表紙の箱。留め具は二重で、外は錆び、内は新しい。
「話をする前に、見てほしい」
彼は箱を開けた。中には壊れた部品が順序よく並ぶ。割れた陶器の蓋、欠けた板目、焦げた鍋敷き、砕けたガラスの保護珠、それから、古びた紙束。
「これが、私の言う保険だ。家に危機が来たとき、先に壊れるものたち。私はいつも、それを置いてきた。罵倒、沈黙、悪評、誤解。先に壊しておけば、奥のものは守られる」
「家のヒューズですね」私は欠けた鍋敷きを手のひらにのせた。「ただ、ヒューズは交換が前提です。人は部品ではない」
彼はうっすら笑って、紙束を差し出した。婚姻契約の写し、監視妃任命書の原本、領地会計顧問契約の副本。
「条項のこの文言。『監視妃は対象の逸脱時に、制止の行動を取り得る』」
私は指でなぞった。「制止は身体だけではない。制度も制止できる」
「君が今日やったのは、それだ。“戻し儀”という、制度の緩衝」
「保険の本質は、緩衝と余白です」私は欠けた珠を置き直した。「身代わりであり続けるのは消耗で、余白を作るのは設計です。あなたは、設計のほうに移る時期です」
ユリウスは視線を紙の端に落とし、少し黙ったのち言った。
「……昔、妻がいなくなった。家の声が急に減り、私は音を守るために、自分の声を切った」
私は遮らない。人が核心を渡すときは、間を要する。
「娘は血の繋がりはない。妻が救い上げた子で、私は扱いを誤れば彼女の過去まで燃えると思った。だから“保険”で自分を外側に立たせた。悪評は外殻に貼るには都合がよかった。……それが、家の穴になっていた。今日、やっとわかった」
「外殻は守るけれど、音は通さない。外殻が厚いと、拍が死ぬ」
私は婚姻契約を開き、細い鉛筆で余白に書き入れた。
「臨時解釈通達案。条項三:『制止の行動』には“拍の復旧”を含む。条項五:監視妃は『対象および同居家族の言葉の保全』を目的として台所・倉庫・帳場に立ち入り、音・匂い・言葉の列を複式簿記で管理することができる」
ユリウスは吹き出しそうになり、しかし笑わない。
「法律文書で鍋蓋が踊っている」
「暮らしの効力を文書に埋め込むと、清廉書式はそこを素通りできなくなります。紙にも鍋敷きは必要」
窓の外で、鈴虫が均等に鳴いた。拍の外部参照。いい夜だ。
私は箱の最後の封筒を開いた。紙は薄く、端に塩の皺。海沿いの紙だ。
「それは、彼女(妻)の置き手紙だ」
私は目を走らせた。一行だけ、くっきり。
――十は円になる。
胸の奥で、義娘が初日に言った丸が応答する。
「十は責任の形で、円は帰還の形。あなたは十の側に立ちすぎて、円を失っていた。私は円を返しに来た」
「返しに来た?」
「ただいま」
私は声に出し、柱に丸を描くふりをした。私の役職名は長いが、仕事は短い。ただいまを張り直すことだ。
◇
扉が、遠慮がちに二度猫のように鳴いた。
義娘が顔を出す。手には今日の議事録。
「きょうの“すき”、かいた」
彼女の指は、昨日よりささくれが減っている。軟膏が効いているのだ。
紙には、丸の中に**“よぶ”とあった。
「“呼ぶ”?」
「だれかのなまえ、よんでいいってこと」
呼ぶは帰還の逆ベクトル、到来の合図だ。ただいまにおかえりを対で置く。
「いい言葉。では今日の臨時規程――“呼んだら返事”**」
ユリウスは立ち上がり、少しぎこちない声で名を呼んだ。
「……エリス」
私は返事をした。「はい」
彼は娘の名も呼んだ。返事は、丸みたいに短く、はっきり返ってきた。
◇
食後、台所で短い実験をした。
鍋蓋ではなく、木匙の背で鍋の縁を二度叩く。金属と木の音は、鍋蓋より柔らかい。
「柔らかい制止。広場の鐘は硬い制止。使い分けが制度の品だ」
義娘が真似して、匙でとん、とん。拍は取れている。
□ 《臨時形式回/条項の読み替え草案》
【目的】“制止”概念の暮らし接続。
【改文案】
・条三:『制止』=拍の復旧(音・匂い・言葉の等間化)。
・条五:監視妃の複式簿記権(火・手・口/音・匂い・言葉)。
・条七:公開監査の慈悲枠(帰還合図=丸の設定)。
【運用】
・証跡は音響記録(鍋蓋・木匙)+擦り出し(印章)。
・緩衝(余白)の設定:形式回週二回。
【備考】
・“保険”は身代わりから余白へ遷移する。
文を閉じ、私は明日の段取りを口にした。
「顧問メンデスは“効力”を問うた。明朝、条項の読み替え草案を広場に貼り、反対者には条文の空欄を渡す。空欄は余白で、保険だ。記入して戻しに来てもらう」
「空欄の書式で清廉を釣るわけだ」ユリウスが言う。
「清廉は、空欄に何を書くかで決まる。余白は飾りではなく責任」
◇
夜更け前、門の外で小さな衝突音。
侍従長が駆け込む。「石を投げられました。窓に……いえ、鍋敷きに当たって弾かれました」
私は息を一度吸って吐いた。最小限の残酷の反動。
外に出ると、石は鍋敷きの焦げ目に当たって転がり、地面には白い粉が残る。石に擦り付けられた石鹸。善意の匂いで悪意を包む、稚拙な化粧。
私は石を拾い、ユリウスに渡した。
「保険の配置、効きましたね」
「鍋敷きが鍋を守った」
「では、こちらは余白で返す。明朝、広場に**“鍋敷き展示”を置きます。『家を守った焦げ』として。恥の書式を誇り**の書式に反転させる」
義娘が袖を握った。
「こわい」
「大きい丸を」私は彼女と一緒に空中にゆっくりと円を描いた。「呼ぶ。わたしたちの音で」
家の中で、木匙の二拍が軽く響いた。柔らかい制止。窓の外の気配が、少し退く。
◇
深夜、私は一人で家計簿(心の列)を開き、今日の欄に“呼ぶ”を書き足した。
——好き=呼ぶ(到来の合図)
——拍=木匙二
——処置=保険→余白(設計へ遷移)
ページの下に、短い詩を置く。
十は円になる/円は拍になる/拍は家になる。
紙の上の拍は、明日、広場で音に変わるだろう。
灯を落とす直前、ユリウスが戸口に立ち、短く言った。
「ありがとう」
「臨時規程は存続中ですから」
「明日からは常設にしたい」
私は、頷くだけにした。言葉は多い夜だった。音は、これでいい。
梁の手拭いは、今日も乾いて、刺繍の花は丸の内側で崩れない。
保険は、身代わりではなく余白として置く。
明朝、条項の読み替えで家を守る。紙に拍を移植する。
(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:台所が喋ります――条項読み替えと“公開監査・前庭版”。)