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第6話「監視妃の本職:家計簿の犯人探し ――“油染みの向き”と横流しルート」

 朝の広場に、三・二・一の順で鍋蓋が鳴った。

 始まりの三拍。戻しの二拍。終いの一拍。戻し儀は、台所の手順と同じく順序が命だ。


 ピリニャが壇上で白蝋を掲げ、私は灰の戻し蝋を受け取る。

「白――“清めの顔”」「灰――“悔いの火種”」「赤――“公務の責任”」

 短句で言い添え、擦り出しを二度。白い羽は七から灰の六へ、さらに赤い正規印で六が確定する。

 群衆の胸が、目に見えないところでふうふうと冷まされていくのがわかる。最小限の残酷と最小限の慈悲を、見える形にして渡すと、人は拍を取り戻す。


 庶務の男は、乾麺三箱を運び込み、長身の男は袖口の墨の羽を見せたうえで、灰の蝋で屋敷側の文書に「受領」を押した。

 ユリウスは一歩前に出て、丸を胸の前で描いただけで引いた。沈黙は今日も保険として機能する。


 さて、数字だ。今日の本職はここから。

 私は壇上を降り、町役場の卓を借りた。帳場から持ち出した支払伝票、納品書、そして台所と倉庫の微小痕の写し。

 机の端に、義娘のための椅子を用意し、小さな紙扇も置く。家の地図は、家族で見る。


 ◇


 第一の糸口――油染みの向き。

 台所の床板、倉庫の敷板、裏口の敷石。同じ油でも、落ち方に向きがある。

 私は炭筆で、三か所の染みを、矢印にして並べた。

 ——台所:南東へ細長い尾。

——倉庫:真西へ扇状。

——裏口:北西へ斑点。


「油は重い液体です。持つ手と傾ける角度で、尾の方向が変わる。台所の尾は調理人の動き。倉庫の扇は箱を引く動き。裏口の斑点は、急いで担ぎ直した動き」

 私は地図の上に矢印を置き換えた。三つの向きが、一点で交わる。

「交点はここ――路地の髪結い屋の角。ここから北西へ、油が運ばれている」


 ピリニャが頷く。「北西は川向こうの石鹸釜だ。油が再生に回る」

「ふむ。油の再生は、暮らしの知恵。だが、誰の許可でどの帳で?」

 私は納品書の端を指で弾いた。「この月だけ、繋ぎ紐の撚り方向が逆。正規の納品書は右撚り。これは左撚り。しかも一本だけ新しい。まとめ押しで通した際、束の外側だけ取り替えた」


 ユリウスが目を細める。「外だけ」

「ええ、見出しだけ清廉にするやり口。中身は油。臭いは消えない」


 ◇


 第二の糸口――布のほつれ。

 倉庫で拾った白い糸屑は、実は二種類あった。撚りの甘い綿糸と、撚りの強い亜麻糸。

 私は針で軽く巻き、戻りの強さを見せる。

「夏に“衣替え”をでっち上げるなら、軽い綿でよいはず。でも亜麻が混じる。これは袋だ。乾麺や油瓶を入れる運搬袋の口縫いに使う。つまり布の支出は“衣”ではなく袋」

 伝票の行間に、袋代は出てこない。だが布でまとめて計上すれば合法の顔になる。

「合法の顔をした横流し。顔は清廉、手は油。いい趣味じゃない」


 庶務の男が言い訳の形をした口で言う。「袋は返した。うちは借りただけで」

「返却記録は?」

「……ない」

「返却の無記録は、持ち出しの恒常化です。“借りっぱなし”は簡易倉庫。路地の角→川向こう、袋で少量を繰り返す。軽荷車の跡も、昨日見ましたね」


 ◇


 第三の糸口――乾麺の割れ方。

 私は乾麺を三本取り、一本はまっすぐ折り、一本はひねって折り、一本は束のまま折った。割れ目の粉の出方が三者三様に違う。

「倉庫の床に残っていた粉は、ひねり折りの粒度。つまり、狭い場所で束を小分けした。大箱のまま出したなら、まっすぐ折れの粉になる」

 川向こうの石鹸釜に隣接して、小さな貸し小屋が並ぶのを私は思い出す。

「小屋で小分けし、日銭で流す。王都の“清廉書式”は、その日銭の拍を知らない。だから夏に三点を太らせた」


 ユリウスが短く言う。「穴は路地と川の間にある」

「ええ。噂は王都から来て、穴は川に開く。音で蓋をしても、数字が水路を通る」


 ◇


 午前の広場は一度解散し、私は家へ戻って家計簿の復元にかかった。

 帳場の古い仕訳紙を引っ張り出し、心の列を併記する。

 ——油(火)/布(手)/乾麺(口)

 ——音(蓋)/匂い(香)/言葉(丸)

 暮らしの複式簿記。心の行が空白の日は、穴が発生している。夏の異常月は見事に空白が並んだ。

 私は赤鉛筆で、空白の上に小さな穴の丸を描き、右隅に**“ふさぐ”**と書く。


 義娘が台所から顔を出した。手には練習帳。

「かきかた、みて」

 彼女の字はまだ震えるが、丸だけは綺麗だ。

「“ただいま”」と書いた行の下に、彼女は小さく「ふさぐ」と添えていた。

 私は頷き、指でその丸をなぞった。帰る丸は、穴の丸の治療になる。


 ◇


 午後、川向こうへ。

 ピリニャ、庶務の男、長身の男。ユリウスは遠巻きに付き、黙る保険を携帯。

 石鹸釜の手前、貸し小屋の鍵は抜けていた。鍵穴の周りには、石鹸粉と油の薄い輪。

 私は床板に膝をつき、指で輪を撫でる。輪の継ぎ目に、亜麻糸の繊維が一本。

「袋の口をここで縫い直した。運ぶたびに撚りが緩むから」

 棚には、乾麺の短い束。油の量り瓶。亜麻袋は畳まれて積んである。どれも清潔。無痛の清潔。

 奥の壁に釘が一本。そこにぶら下がるのは、羽飾り六の押し型――ではなく、羽飾り七の焼印。

 庶務の男が息を止める。「やっぱり、やつだ」

 私は焼印を布で包み、ピリニャに預けた。「戻しの火にくべましょう。七は、灰になってから六に戻す」


 外へ出ると、川風。

 私は風下の匂いを吸い、少しだけ笑った。「善意の匂いが、ここでは商売の匂いに変わる。石鹸の香りは清らかだが、清らかの“顔”は、時に悪事の“幕”にもなる」

 ピリニャが肩で笑う。「匂いは混ぜ方で変わる。蝋も、油も、人の言葉も」


 ◇


 夕刻、屋敷。

 私は家計簿復元表の穴に、いくつかの処置を書き込んだ。

 ——油(火):石鹸釜経由の戻し配当を台所に明記。

——布(手):袋代を独立科目化。返却記録を設ける。

——乾麺(口):小分け禁止、量り売りは広場のみ。

 暮らしの効力が先。法の効力は、それを支える梁。この順序を間違えると、清廉書式がまた穴を飾る。


 ユリウスが私の肩越しに紙を見て、ぽつりと言った。

「君の簿記は、拍でできている」

「拍のない家計簿は、歌えない。歌えない帳簿に、人はお金を置き続けられない」


 義娘は、今日の“好き”を言いにきた。

「きょうは、“なおす”」

「治す、直す、直す、直す」

 私は議事録に書く。好き=なおす(穴に蓋)。

 それから彼女は躊躇いがちに私の袖を引き、抱っこの姿勢になる。

「業務外ですが?」ユリウスが苦笑した。

「臨時規程第三号。“なおす”の実施時は、抱っこ可」

 私は彼女を抱き上げ、丸を背中にひとつ描いた。人は、拍が肌でわかると、字の震えが少し収まる。


 ◇


 夜、形式回を仕上げる。

 ――《監視報告書:第五日・家計簿犯人探し(要約)》

 【観察】

 ・油染みの尾向(台所:南東/倉庫:西/裏口:北西)→路地角交点→川向こう。

・布:亜麻糸混入=袋代の偽装。

・乾麺粉:ひねり折りの粒度=小屋での小分け。

・鍵穴:石鹸粉(善意の匂い)常用。

・壁:羽飾り七焼印。

 【解釈】

・清廉書式(余白・正語)が横流しの幕に。

・“夏の三点肥大”は路地→小屋→川の日銭回路を隠蔽。

・王都の“関知せず”は暮らしの拍に未接続。

【対処】

・焼印は戻しの火で灰化→六に復位。

・袋代科目の新設、返却記録の義務化。

・量り売りは広場一本化。

・**家計簿(心の列)**の運用開始。

【付記】

・義娘“好き=なおす”。臨時規程第三号:抱っこ可。


 筆を置くと、窓の外で鈴虫が鳴いた。夏の端の音が、拍に合流する。

 その音に重ねるように、廊下でユリウスが立ち止まり、こちらを見た。

「ひとつ、言っておく」

「はい」

「君は、私の“保険”だ」

 私は、鍋蓋を一度だけ鳴らし、音で返した。

「保険は、鍋敷き。鍋はあなた。私は、火加減」

 ユリウスの口元が、やや不器用に緩む。「火加減を信用しよう」


 梁の手拭いは今日も乾いて、花は丸の輪の中で崩れない。

 穴の丸は、帰る丸でふさぐ。

 明日、契約条項の読み替えで家を守る。言葉を焦がさずに。


(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:契約夫の本音――君は僕の“保険”だ、の真意。)

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