第5話「予算配分の謎。宮廷の“穴”は台所に出る」
朝、鍋蓋は一度だけ鳴らした。今日は数字と向き合う。音は最小限にして、沈黙の余白を広めに取る。そこに数字の足跡が浮くからだ。
台所の卓に、私は三種の品を並べた。油の小瓶、布の端切れ、乾麺の束。
ユリウスは椅子を引き、義娘は足がぶらぶらする高さでちょこんと座る。彼女の前には小皿と、昨日の丸の紙扇。議題は大人向けだが、家の地図は皆で見るものだ。
「本日の監査は、三点連動の確認です」
私は小瓶を傾け、小皿に油一滴を落とした。布切れをそっと触れさせ、次に乾麺をほんの少し砕いて油に触れさせる。
「この三つは、屋敷の暮らしで同じ拍にあります。油は火、布は手、乾麺は口。火と手と口が揃わない日は、家が痩せる。逆に数字上でこの三つがいつも一緒に増減するなら、暮らしのリズム通り。いずれかだけが“太る”日は、穴がどこかに空く」
義娘が真似をして、紙扇で一度だけ風を送る。油の面にゆらぎが走る。
「きょうは、すこし」
「そう、“すこし”。数字は少しで仕掛けをする。大胆な盗みは音が出る。だから、穴は少しの連続で掘られる」
私は帳場の束から、油・布・乾麺の納品台帳を抜き出した。横に王都の予算配分命の写しを置く。
「王都の命では、見本市期(春と秋の境)に油と布の支出が増えるのは正当。衣替えと器具の手入れがありますから。乾麺は冬前に少し多くなる。寒風に備える保存食の性格です」
私は赤鉛筆で棒グラフを描く。油=赤、布=藍、乾麺=黄。
「見ます――春末/秋初。油が多い、布が多い。いいですね。冬前、乾麺が増える。いい。ところが……」
私はある月に丸をつけた。夏の半ば。
「油が増える。布も増える。乾麺も――増えている。これは不自然。三点同時肥大は、暮らしの拍子にない。誰かが、“正しい時期の装い”を借りて、別の月に三つまとめて数字を動かした」
ユリウスが身を乗り出す。「夏に、そんなに乾麺はいらない」
「いらない。ところが台帳は“要った”顔をしている。油も布も同時だから、“器具の手入れ+衣替え+保存食準備”を夏にやったことになっている。可笑しい」
私は出納印に目を向けた。
「この月だけ、出納官の印の押圧が浅い。どの紙にも、同じ角度の浅さ。印を持つ本人が押していない、あるいは、同じ姿勢で大量押しした。つまり、まとめて通した」
義娘が紙扇の先で、グラフの丸をつつく。
「ここ、まる」
「いい視点」
私は合図を受け取るように、鍋蓋を一度鳴らした。
◇
午前のうちに、私は倉庫に戻った。昨日の粉の名残は消え、鍵は正しく回る。
木箱の側面を指でなぞる。木目の深いところに、白い糸屑が落ちていた。
「布と乾麺の納品日は、同じ運び手か、同じ手順で箱の姿勢を変えた。布の糸屑が乾麺の箱に落ちている」
裏口の敷石に、車輪の跡。細い、軽荷車だ。
「運びは軽い便。重い荷馬車なら車輪幅が広い。軽い便で何度も往復して少しずつ膨らませた」
ピリニャから受け取っていた戻し蝋(灰)を、私は試しに扉の内側の板に押してみた。羽飾り六。輪郭は正しく出る。
「蝋は戻せる。数字は――戻しづらい。だから、行列を作って戻す」
私は手帳に、明日の公開戻し儀の段取りを書き足した。
——白→灰→赤。
——蝋の戻しと数字の戻しを対に見せる。
——“三点同時肥大”の月は、一拍ごとに分解して戻す。
◇
昼、広場の下見。
鍋蓋の音試しをした。始まり=三、途中の戻し=二、終わり=一。
義娘は柱の影から、今日も丸を描いて見守る。
庶務の男と長身の男も来ていた。二人とも、袖口はほどいてある。墨の羽は隠さず、その隣に灰の蝋で押した六の印影。
「やり直しは、見せるほどよい」私は短句で言った。
男たちは頷いた。昨夜より、目の混濁が減っている。背に乗っていた言い訳の重さが、少し降りている。
◇
午後、私は宮廷配分表の原本を求めて、使者に脚を出した。代わりに戻ってきたのは、写しと、短い返書。
——本配分表は王都保管。照合は可。
——第四課旧外郭サヴォナ・メンデス、当局関知せず。
関知せず。便利な言葉。知っていたが知らないと言いたいとき、人と役所は同じ言葉を使う。
私は机の端に、家のほうの配分表を作った。
油=火の列/布=手の列/乾麺=口の列。
そこへ、義娘の**“好き”を日にちごとに並べていく。
丸 → ふたり → ただいま ……
生活の主旋律**を数字に重ねる。
数字の列は、生活の歌詞カードと並べて初めて正しい歌を歌う。歌詞のないメロディは、聞こえがちだが、言葉を失う。書式だけの清廉は、その、歌詞のないメロディだ。
ユリウスが机に手を置いた。「面白い見方だ」
「家庭版の複式簿記です。心の列がない帳簿は、穴を呼び寄せる」
◇
夕刻前、門に人影。
来訪者は、領地会計所の役人二名と、黒い上着の顧問。
顧問は痩せて、笑顔が薄い。サヴォナ・メンデス。
「監視妃殿。ご活躍の噂を耳にして参上した。辺境の会計にご懸念とは、清廉の志、まことに——」
「清廉の“書式”をお持ちですね」
私は遮り、鍋蓋を一度鳴らしてから続けた。「明朝、広場で戻し儀。あなたの意見は、その場で聞きます。机の上の言葉は、台所の音の上で試すのが筋です」
メンデスの笑みが、髪の毛一本分だけ薄くなった。
「儀に法的効力は?」
「暮らしの効力はあります」
私は短く答え、扉を閉じた。
廊下の向こうで義娘が丸を描くのが見えた。いつもより、少し大きい丸。怖いときは、大きい丸。
「大丈夫」私は彼女の横にしゃがみ、同じ大きさの丸を描いた。「帰る道は、こちらが作る」
◇
夕餉は、油・布・乾麺に因んだ**“三拍膳”にした。
前菜——油:香り油を一滴落とした根菜のマリネ。
主菜——布:布のように柔らかな薄焼きの卵(“布卵”)、中に野菜。
椀——乾麺:ただいまスープの麺入り版。
食卓会議の議題は“三拍の覚え方”。
義娘は、扇で一・二・三と小さく風を送った。「いち、に、さん」
「よくできました」私は議事録に記す。好き=数。
ユリウスが笑って、「拍が家訓**になりそうだ」
「家訓の短さは、家を救います。長い家訓は、誰も覚えず、穴を見落とす」
食後、ユリウスが唐突に言った。
「私が“保険”の名でやってきたこと――沈黙で受ける、悪評を背負う。あれは、穴を先に自分のほうへ寄せるやり方だったのかもしれない」
「そして台所は、穴の形を見せてくれる場所です」私は応じた。「今日は三点が夏に肥大し、粉が鍵に入り、糸屑が乾麺の箱に落ちた。穴の形は丸に似ているけれど、帰る丸と違って、抜ける丸です。明日は、抜ける丸に戻し蝋を流して固める日」
義娘がぽつりと言った。
「まる、ふさぐ」
「そう、ふさぐ」
◇
夜の形式回。
――《監視報告書:第四日準備・三点連動と戻し儀》
【観察】
1)油・布・乾麺の支出、夏期に三点同時肥大。暮らしの拍子に非。
2)出納印押圧の浅さ(大量押しの兆候)。
3)倉庫:乾麺箱に布の糸屑混入、運搬は軽荷車反復。
【解釈】
・“清廉書式”の外観(余白・正語)で月次を偽装。
・穴は少しの連続で拡大。
・数は心の列がない帳簿にすり抜ける。
【対処】
・明朝、広場にて戻し儀。手順:白→灰(戻し蝋)→赤。
・三点同時肥大の月、支出を三拍に分解し、逐次公開返納。
・“関知せず”に対し、生活効力の場での照合を要請。
・家内教育:三拍膳、好き=数。
【付記】
・義娘の安全地帯運用(台所・丸)。
・顧問サヴォナ・メンデス来訪、広場での意見表明に誘導。
筆を置くと、外で風が音を変えた。夏の端が剥がれ、夜は一段深くなる。
私はランタンの火を小さくし、梁の手拭いの端をそっと撫でた。布は乾き、刺繍の花は形を保っている。布の列は、今日、台所で正しい位置を得た。
それでも数字は、まだどこかで薄く笑っている。明日、笑いを止める。
鍋蓋を一度だけ鳴らし、私は目を閉じた。拍は、広場でも家でも同じ速さで進むはずだ。
(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:家計簿の犯人探し——“油染みの向き”と横流しルート。)