第4話「夫の悪評、監査資料では矛盾だらけ」
明け方、鍋蓋は一度だけ鳴らした。合図は最小。今日は、言葉のほうが多くなる予感がしたからだ。
玄関の前で、空が淡くほどけるころ、足音が三つ。
扉の隙間から入ってきたのは、昨日の庶務の男と、長身の羽飾り七の腕の男、そして見慣れない女。金物の匂いに、白い蝋の甘い匂いが混じっている。
「返しに来ました」
女が先に頭を下げた。髪は後ろでひと結び、指先は蝋に焼けて艶がある。
「蝋燭商組合の者です。白蝋は、葬祭専用。本来、官の封蝋に使う筋合いはありません。うちの組合印で卸した覚えは、ない」
私は、彼女の手元を見た。掌の真ん中に、熱でできた薄い硬皮。本職の手だ。
「お名前を」
「ピリニャ。祖母の代からの蝋の家。……白蝋が、羽飾り七に付いていたと聞いて、眠れなくて」
彼女は麻袋から、白蝋で作った小さな円柱と、芯を束ねた黒糸を見せた。
「これは誓いの火用の規格。直径も硬度も、印章向きではない。印影を綺麗に出すなら、もっと軟らかい配合にする。**“白蝋の顔をした別物”**が使われてるはず」
庶務の男は肩をすくめ、長身の腕の男は無言で袖をまくった。腕の墨の羽は、七。
「これは、俺の……若気の至りだ。墨は、昔の仲間の印で」
「昔の仲間?」
「宮廷庶務局第四課・外郭。いまはもう解散した“外回り”。報告書の下ごしらえばかりやらされて、嫌気が差して抜けた。印章は、偽物の稽古で――」
私は、彼の言葉の途中で鍋蓋を一度鳴らした。
「稽古という語は、便利な逃げ道です。今日の議題は、悪評の出所と矛盾の整合。稽古で人は壊れない、が、稽古の名で押した蝋は家を壊す」
義娘が柱の陰から覗いた。丸をひとつ描いて、台所へ消える。台所は今日、彼女の安全地帯だ。私は彼女の丸を合図に、公開の場から室内の卓へ話の舞台を移した。大声は、嘘の栄養になる。
◇
応接の卓に、私は四種類の紙を並べた。
一枚目は、王都発の「冷遇の侯」の告発文。紙は上等、罫は美しい、余白は過剰。
二枚目は、屋敷の実記録(領収控、納品伝票、鍋の蓋の音数のメモまで)。
三枚目は、昨日の擦り出し——白蝋/羽飾り七。
四枚目は、食卓会議録(ただいまスープ、丸と“ふたり”)。
人は、嘘の話をする時、生活を机から落とす。私は逆をやる。生活を机に上げてから、嘘を机の下へ落としていく。
「まず、語彙の矛盾」
私は一枚目の告発文の中から、「冷遇」「不在」「虐待」「無関心」という単語に赤線を引いた。
「“冷遇”と“虐待”は、異なる温度の語。並べる者は、温度の扱いを知らない。さらに“無関心”は“不在”と併記されるが、無関心は居ながらの欠如、不在は物理的空白。同じ文章内でこの二つが頻発するのは、筆者が現場にいない証拠です」
庶務の男が、うめいた。「たしかに、現場に行かずに、机で書いたことがある」
私は、二枚目の実記録を指で叩いた。
「台所の油壺、鍋の煤、鍵穴の石鹸粉。これらは現場しか語らない。現場の言葉は、指先の痛みを持っている。告発文の言葉は、痛みがない」
「監視報告書:第三日・悪評整合(抜粋)
1)語彙温度の不整合(冷遇/虐待/無関心/不在)。
2)余白の過剰(“善意の顔”の演出)。
3)現場物証(油・煤・粉)は“痛み”を内包、告発文は無痛。
結語:書き手は現場にいない。もしくは、現場の“音”を聞いていない。」
ピリニャが、白蝋の円柱を指で転がした。
「白い蝋には、不吉/清めの両義がある。葬儀でも誕生でも使う。だから“正しいことに見える”」
「善意の匂いですね。石鹸粉の匂いに似ている」
彼女は頷いた。「あれは、匂いで人を眠らせる。蝋の火が柔らかいと、人の判断も柔らかくなる」
私は、庶務の男に向き直った。
「あなたの上は誰?」
「……第四課、旧外郭の係。サヴォナ・メンデス。いまは退いて、領地会計の顧問におさまっているはず」
「その顧問が、“被害者面の報告様式”を作った」
「やつは、綺麗に書く。汚いことを、綺麗に書く」
ユリウスが低く息を吐いた。
「メンデスは、王都では“清廉”で通っている」
「清廉の書式は、台所に出ない」私は言った。「誤差の穴は、まず台所に現れる。乾麺が足りない。塩の粒度が変わる。音が減る」
◇
私は、矛盾の地図を作ることにした。
薄紙を重ね、王都から来た告発の日付、屋敷の実記録の日付、今朝の帰還の印(白蝋/乾麺)を、色違いでプロットする。
線と点が、拍のように並び、ところどころでスキップする。
「ここです」私は一点を指した。「告発文が“虐待”を告げる日に、家では**“ただいまスープ”**が出ている。温度が合わない。
さらにここ。告発文が“無関心”をなじる日に、倉庫の鍵穴は“粉”でまみれている。関心がない家に、鍵の跡消しは不要。誰かが入った。あなたたちか、その上か」
長身の男が、乾いた唇を舐めた。
「……上が、俺たちに手順を教えた。**“道徳で殴る”手口も。白い蝋、きれいな余白、正しい単語。それに、“子供”**の語を挟めば、人は判断を止める」
ピリニャが眉をひそめる。「子を、蝋で飾るな」
男は視線を落とした。「すまない」
私は、鍋蓋を二度鳴らした。
「謝罪は行為で。三箱。乾麺を返す。白蝋の供給系を洗う。羽飾り七の袖は、六に継ぎ直す」
ピリニャが腰の袋から、淡い灰色の蝋を取り出した。
「戻し蝋。白蝋に見えて、官用の赤蝋と混ぜると“戻る”。組合の古い知恵。“誓いで乱れたものを、誓いで戻す”」
「それを使いましょう」私は頷いた。「明日の広場で、擦り出し二回。白から灰へ、灰から正規の赤へ。戻りの手順を、皆に見せる」
ユリウスが小さく笑った。「台所と同じだな。古いパンを今日に戻す」
「はい。戻しは台所の十八番」
義娘が、廊下の向こうで丸を描いているのが見えた。彼女の丸が、今日の拍を閉じる合図になる。
◇
午後、私は王都庶務局向けの短報を起草した。
「通達:監視妃エリス/第三日正午
件名:辺境レスト侯家に関する告発文の整合性照合
要件:当該告発文に現場非依存の書式および偽印章の混入を確認。
所見:語彙温度の不整合、余白の過剰、無痛の文体。
提言:第四課旧外郭系の清廉書式の監査。供応品(白蝋・石鹸粉)の逆追跡。
補記:家内の音の復旧(鍋蓋一→二→三)、“丸”による帰還合図の導入。
以上。」
書き終えると、扉の外で靴の音が止まった。
侍従長が咳払いして入る。「奥様――いえ、監視妃様。噂の使者が二人、門の外に」
「どの噂?」
「“冷遇の侯は、娘に冷水を浴びせた”と。古い噂です」
私は、侍従長の持つ紙を受け取り、わずかに笑った。
「冷水ね。昨日と今朝、湯気が屋敷から上がったのを、見たはずなのに」
◇
噂の使者は、町の寄合の若者だった。善意と興奮が半分ずつ、肩にのっている。
「確認に来たんです。もし本当なら、寄合として――」
「善意の仕事ですね」私は短句で返す。「確認ありがとう。では、あなたの善意に重さを付けます」
私は若者たちに、昨日と今日の“音”の記録を聞かせた。鍋蓋の一、二、三。義娘のふうふう。
「音は嘘をつかない。水は音を変える。冷水を浴びせる家は、朝に湯気を上げない」
若者は、わずかに赤面し、胸の前に丸を描いた。「……わかった。帰る」
「“ただいま”を言える家は、ここ。あなたの噂は、“いってきます”にしてください」
彼らは照れくさそうに笑い、丸をもう一度描いて去った。
ユリウスが隣で息をついた。「噂に拍を与えるのか」
「早口の噂にはゆっくりの拍。それで、家に入る速度を落とす」
◇
夕方、短い形式回を挟む。
――《監視報告書:第三日夕・悪評矛盾整理》
【確認】
・告発文:語彙温度の矛盾、余白過剰、現場非依存。
・偽印章:白蝋(擬装)→戻し蝋(灰)→正規赤蝋での回復手順を公開予定。
・供給源:蝋燭商ピリニャ(証言/資料提出)。
・関係者:第四課旧外郭サヴォナ・メンデス(名)。
【影響】
・家の音が復旧して以降、噂の侵入速度が低下。
・町の若者(寄合)へ重さの付与(検証手続きの付与)。
【次手】
・予算配分の穴の調査(油・布・乾麺の連動)。
・“清廉書式”の会計版の有無を照合。
・広場での戻し儀の段取り確定(鍋蓋:始三→戻り二→終一)。
◇
夜。
台所では、義娘が小麦粉と水を混ぜている。指に粉がつき、白い月みたいになっている。
「なにを作ってますか」
「“まる”」
私は笑いを喉の奥で抑えた。「たしかに」
ユリウスが隣で、その小さな丸に粉砂糖をひとつつまんで乗せた。
「甘い善意は、少量で」
「さとう、すこし」義娘が復唱した。
「きょうの“好き”は?」私は器を並べながら訊ねた。
「“ただいま”」
「良い」
私は議事録に記す。好き=ただいま(音:一)。
そして、三人で丸を一個ずつ作り、焼き、少しだけ砂糖を振り、湯気の中で食べた。
音は、等間。家は、拍を覚え続けている。
寝る前、私は明日の段取りを頭の中で並べる。
——白→灰→赤の戻し儀。
——印章擦り出しは、子どもの背の高さで。
——鍋蓋は、始三・戻り二・終一。
——丸は、帰還の標。
そして、日誌に一行。
課題:予算配分の謎。宮廷の“穴”は台所に出る。
数字は、音より狡猾だ。次は、数字の居場所を台所の地図に落とす。
(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:予算配分の謎。宮廷の“穴”は台所に出る——“油・布・乾麺”の三点連動。)