第3話「義娘と食卓会議。議題は“好きなスープ”」
朝、鍋の蓋は二度だけ鳴らした。三は広場のために温存する。家の音を少し抑えておくのは、外で拍を確かに響かせるための準備でもある。
湯気に混じる香りは、玉ねぎと控えめな鶏出汁。それから、丸を思わせる、柔らかなハーブ。ラベンダーではなく、今日はマジョラムをひとつまみ。輪郭がぼける優しい香りだ。
「本日の議題は、“好きなスープ”の具体名です」
私は卓上に薄板を置いた。食卓会議の議長台。板には方眼を引き、上段に“匂い・温度・形・色”、下段に“記憶・言葉”と見出しを書いた。
義娘は、背筋を正して座る。昨日より椅子がテーブルに近い。足は床に届かないが、届かないという事実を恥ずかしがらない姿勢は、良い。ユリウスは斜め向かいで、必要最小限の表情を装備している。
「まず、“匂い”。昨日は“あったかい匂い”でした。今日は、一歩深掘りします。甘い/しょっぱい/草/土。どれが近い?」
義娘は鼻先を小さく動かし、スープの湯気を吸い込んだ。
「……くさ、の、やさしい」
「草の優しい。良い組み合わせです。では“温度”。熱い、ぬるい、あつすぎない」
「ふうふう、したい」
「ふうふうしたい=“熱め・可逆”。“可逆”は、ふうふうで最適に戻せる温度のこと」
私は黒鉛筆で“草の優しい/熱め(可逆)”と記す。
「形。滑らか、ちょいごろごろ、ぱらぱら」
「ごろごろ、ちいさい」
「色。透明、少し白、きいろ」
「きいろ」
四項目が埋まった板は、音符のように見えた。私は下段の“記憶”を指で叩く。
「このスープを飲むと思い出すのは?」
義娘は、椀の縁を撫でた。
「ひるまの、ひだまり」
「言葉。」
「……“ただいま”」
私は顔を上げ、ユリウスを見た。彼は、頷くかわりに、胸の前で小さな丸を描いた。
「結論。今日のスープは“草の優しい・熱め可逆・小さなごろごろ・きいろ”、名前は“ただいまスープ”」
義娘は目を細め、その名を口の中で転がした。「ただいま、すーぷ」
「命名権は君にある。異議申し立ては監視対象の権限にも及ぶが、本件に限り却下」
「権限が、軽やかに盗まれた気がする」ユリウスが苦笑とも溜息ともつかない音を出した。
「権限は、台所に保管されます。台所は、この家の臨時議会」
私は鍋に、小さく切ったじゃがいもと黄にんじんを加え、薄い鶏出汁にマジョラムを泳がせた。仕上げに、パンを砕いた**“戻しクルトン”**をひとつかみ。熱でふやける前に香りが立つ。
朝食後、会議の議事録を監査日誌の別冊に写す——《食卓会議録 第一号》。
——議題:好きなスープ。
——決定:ただいまスープ(配合比率/出汁6:野菜3:パン1)。
——合図:食卓に丸を描くしぐさ=“帰還の準備完了”。
決定事項が言葉になった瞬間、家の空気が一段まとまる。名づけは、拍に姓を与える行為だ。
◇
「広場での公開監査、音の設計が必要です」
私は昼までの段取りを読み上げた。
「一、屋敷前の鐘を一度だけ借用。二、鍋蓋三枚で“合図音”。三、発言は短句。四、偽印章“羽飾り七”の墨筋の公開擦り出し。五、丸のサインの導入」
ユリウスが眉を上げる。「五番目は何だ」
「逃げ場を与える仕組みです。群衆は、正しさだけでは動けない。帰る道が必要。合図として丸を描く。『ここまで理解した/ここから帰る』の意味を持たせる。罪を認める者にも、聴衆にも、帰り道が要る」
「それは甘さでは?」
「最小限の残酷と対になる最小限の慈悲です。片方だけだと、人は壊れる」
義娘は椅子の上で小さく丸を描いた。試しに、場の空気が一拍だけ柔らかくなる。
「ね?」私は目だけで彼女に合図する。
ユリウスは肩の力を半分だけ抜いた。「やってみよう」
◇
昼。
私は細い紙片を何十枚か切り、黒墨で羽飾りの数だけ小さな線を描くテンプレートを作った。六枚が正規。七枚は偽。
「これは数当て遊びとして配ります。人は“遊び”の名目で真実に触れると、驚きが減る」
同時に、白蝋の欠片を板に押し付け、擦り出しを準備した。輪郭が浮かび上がる手品は、群衆の注意を一点に集め、騒乱の芽を潰す。
玄関では侍従長が、渋い顔で鐘の紐を持っている。「監視妃さま、本当に鐘を……」
「一度だけです。音には稀少性が要る。乱発は価値を失います」
私は紐を引いた。重い鐘が、昼の空に一音だけ起こる。噂の鳥たちが、向きを変える。
広場に人が集まり始めた。野菜売り、靴修理の老人、子ども、庶務の男も混じる。彼の隣には、腕に薄い墨の長身。羽飾り七。
私は台の上で、鍋蓋を三度鳴らした。
――一、二、三。
音は短く、揃って、戻る。
「公開監査、開始」
私は短句だけで話した。
「白い蝋。羽は七。正規は六。ここに、ずれ」
擦り出しを掲げる。群衆が、「あ」と息を吸う。
「鍵。粉。匂い。善意の匂いは、時に石鹸です」
笑いが起きた。笑いは、恐れの歯車に油を差す。
「乾麺。三箱。丸、欠け」
私は指で小さな輪を描いた。子どもが面白がって真似る。輪の手話が波のように広がる。
「問。誰が白を押した?」
沈黙。人々の目が、庶務の男と長身の腕に集中する。長身の男は、袖を無言で下ろした。墨の羽が、布の下に隠れる。
逃がすための一拍を置く。
「帰る道を開けます。名を今ここで言わなくて良い。明朝、印章の持ち主を、六に正して返しに来ること。それが“帰還”です」
丸を描く。
ざわめきがほどけ、石のような罵声の芽が、丸でやわらぐ。
そのとき、広場の端で声が上がった。
「冷遇の侯が、また口を閉じている!」
私は鍋蓋を一度鳴らした。「黙ることは、時に保険。言葉は焦げる。今日は、音で語る日」
ユリウスは、一歩前に出て、胸の前に丸を描いた。それだけ。なぜだろう、人々の肩が一斉に下がる。彼の沈黙は、逃避ではなく責任の姿勢として翻訳された。
短句を締める。
「結語。白は今夜まで“預り”。明朝、六に戻して“ただいま”。乾麺は三箱、戻せ。以上」
鍋蓋を二度鳴らし、終わりの合図を置いた。群衆は散り、しかし完全には散らない。噂の鳥が旋回し続けるのは、いつものこと。大事なのは、巣の場所をずらすことだ。
◇
夕刻。
台所で、義娘と食卓会議の第二回。今日の議題は**“ふうふうの上手なやり方”**。
私は小さな紙扇を三つ用意した。短い/中くらい/長い。
「この三つで、ふうふうの風を試します。どれが今日のスープに合う?」
義娘は一番短い扇を選び、小さな風で丁寧に冷ました。
「風は、戻すために使う。逃がすためじゃない」
「にげない」
「そう、逃がさない。匂いも、言葉も」
私は鍋の火を弱め、ただいまスープをよそった。黄にんじんの輪が、器の底で丸になる。
「今日の“好き”は?」
義娘は考え、答えた。
「“ふたり”」
「ふたり?」
「きのうは“まる”。きょうは“ふたり”。まるのなかに、ふたり」
私は、胸のどこかが、ほんの少しだけ熱くなるのを自覚した。
「議事録に残します。好き=ふたり(丸の内側)」
ユリウスが、器を持った手を止めたまま、目で礼を言った。
「朝の広場、助かった」
「台所の仕事です。外の言葉は短く、家の言葉は長く。逆にすると、家が痩せます」
彼は静かに笑い、それから真顔に戻った。「明朝、誰かが返しに来ると思うか」
「音を戻した家は、帰還を呼ぶ。来なければ、こちらから迎えに行きます。帰る道を示したのに来ない場合は、道標を取り上げる。それもまた、拍のひとつ」
◇
夜、形式回を短く。
――《監視報告書:第二日・公開監査要約》
【方法】
・鐘一音で集合。鍋蓋三音で開始/二音で了。
・印章擦り出し(白蝋・羽飾り七)。
・丸のサインを“帰還合図”に設定。
【効果】
・群衆の緊張緩和。罵声の芽を丸で無力化。
・容疑者群の退路確保(最小限の慈悲)。
・明朝の再会を制度化。
【次手】
・白蝋の供給源調査(薬舗・蝋燭商)。
・善意の匂い(石鹸粉)ルートの追跡。
・倉庫三箱の回収。
・義娘“好き=ふたり”。家の定義を更新。
筆を置くと、廊下で足音。義娘がそっと顔を出した。
「えりす」
「はい」
「“ただいま”って、いついうの?」
「家に帰ってきたとき。帰還のしるし」
「きょう、いってもいい?」
「もちろん」
彼女は、柱に手のひらで小さな丸を描いてから、言った。
「ただいま」
私は同じように柱に丸を描き、返した。
「おかえり」
家は、拍を覚え始めている。音の復旧は、明朝の再会を呼び込むだろう。
私の仕事は、監視だけではない。“帰る道”の設計士でもある。
(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:夫の悪評、監査資料では矛盾だらけ――“被害者面”の正体。)