第2話「最初の業務:台所と寝室の監査」
翌朝、鍋の蓋を二つ鳴らした。
音は小さく、しかし確かに、まだ眠っている家の空洞を満たした。金属と蒸気の継ぎ目が、ひとつ先の朝を予告するような音。
義娘は、扉の影から顔を出した。眠気と好奇心で半々の目。彼女は口を結んだまま、椅子を台所の端へ運び、ちょこんと座る。昨日より一歩近い位置。昨日の宿題――“好き”の言葉は、まだ胸の内で回っているようだ。
「今日のスープは、昨日の定義を少しだけ具体化します」
私は野菜の端を薄く刻み、鍋に放る。玉ねぎは水から。人参は沸いてから。塩はふたつの粒度を混ぜ、最後に少量の油で香りをつなぐ。**“匂いは記憶の梯子”**だ。上り下りが容易な段を、まずは置く。
ユリウスは、廊下に立っていた。入るべきか、入らざるべきか、二歩の幅で逡巡する足。
「どうぞ。臨時規程は、本日も有効です」
「昨日の規程は、昨日限りではなかったのか」
「延長申請が、義娘の視線により自動受理されました」
義娘は、小さくうなずいた。
彼女の指の背に、乾いたささくれがある。夜の間に掻いてしまったのだろう。私は清潔な軟膏を綿棒で乗せ、薄く塗り延ばした。手当は一瞬でも、**“大人があなたに触れても安全”**という合図は、一日を護る。
朝食ののち、私は本日の監査計画を読み上げた。
「一、台所の動線の見直し。二、寝室の湿度管理。三、帳場の閲覧と、封印の検証。四、倉庫の施錠確認。――五、監視対象の“保険”の定義説明」
最後の項目でユリウスが咳払いをした。
「順番はその、五番目でいいのか」
「規程に基づき、台所が先、恋は後です」
私はさりげなく宣言した。言い切ることは、家の軸を一本立てる行為に等しい。
◇
動線の見直し。
台所の机を半歩分だけ壁から離した。鍋と流しの距離を一歩短く、棚の高さを茶碗の重さに合わせて調整する。重いものは低く、よく使うものは利き手側。語るほどのことでもないが、暮らしの拍はこういう場所でつまずく。
鍋蓋掛けを釘から外し、梁の側へ移した。蓋は音を鳴らす道具だ。音の発生源を家の中心に近づけると、音が壁をうまく巡る。
義娘は、私の動きを真似して、木匙の入れ物を少しだけ回した。匙の柄が絡まない位置を、自分で探している。
「それ、いい位置です」
褒め言葉は短く。短い称賛は、恐れを驚かせない。
私は乾麺の箱をひとつ開け、底に手を入れた。粉の匂いに混じって、微かにラベンダー。保存香にしては上等。誰が? 台所を守ろうとした痕跡が、匂いとして残っている。
寝室の湿度。
二階の寝室は、朝の光が斜めに差す。窓枠の角に小さな黒点。黴が芽を出したばかりだ。私は鉢植えの位置を反対側に寄せ、夜間の水やり禁止の札を紐で下げた。寝具は天日で干せない季節だが、湯気の力を使えば繊維は立ち直る。
「昼の二刻に、鍋の余熱で寝具の足元だけ蒸らします。湿りを全体に回すのでなく、**“脚を温め、胸を軽く”**が基本」
ユリウスはメモを取るでもなく、じっと聞いている。彼は聞き方が良い。聞くという作業ができる人は、家を立て直せる。
帳場。
午後、私は帳場の鍵を受け取り、小部屋に入った。窓は高く、光は縦に落ちる。机は羊皮紙でいっぱい。封緘に使われた蝋は、三種類。赤、黒、そして一度だけ白。
私は封蝋印の縁を爪で軽く撫でた。圧の方向が、均等ではない。右利きが左手で押した、あるいは、“押せない人”が押した。
報告書束の上から三番目、数字の癖が初日に見た不正様式と一致している。
差出人は、宮廷庶務局第四課。だが、印影の羽飾りが七枚になっている。正式な紋は六枚だ。たまに起きる彫り直しの誤差ではない。偽物の印章だ。
私は小さく息を吐いた。
――被害者面の書類は、往々にして**“わざと目立つ小綺麗さ”**を帯びる。整いすぎた余白、無駄に美しい罫線。人の善意は、そこに引き寄せられる。過剰な均整は、不正の色だ。
「監視報告書:第1日午後/帳場調査(抜粋)
1)封蝋三種(赤・黒・白)。白は異例。印影の羽飾り枚数に異常(七/正は六)。偽造疑い。
2)報告様式の統一番号位置ズレ(右へ三指)。手口の常習性。
3)納品台帳“油・布・乾麺”は数字が連動。物証:台所の油壺、乾麺箱。不正は“台所”に軸足。
結語:**“善意の証言の顔をした悪意の数字”**の混入を確認。明朝、倉庫の実地確認を要す。」
筆を置くと、戸口に人影が立っていた。
背の低い、手の速い男。帳簿手、あるいは庶務。
「どちら様」
「おお、監視妃さま。あの、鍵束を……侍従長から持ってこいと言われまして」
男は必要以上に笑顔を作った。歯が過剰に見える笑いは、謝罪と弁解と迎合の混合物になりがちだ。
私は鍵束を渡しつつ、軽い世間話のように言った。
「この印章、珍しいですね。白い蝋」
「は、はあ。特別の時にだけ……」
「特別は、いつも誰かが決める。誰が?」
男は笑顔を広げたまま、目の焦点だけが遠くへ行った。
「……さ、さあ」
「“さあ”は、嘘の婉曲表現」
私は笑って見せ、追及を一歩だけ引いた。ここで詰めると、男は逃げる。逃げる者は、音を消す。今は、音が必要だ。
◇
倉庫。
夕刻、裏庭の風が一段冷える頃、私は倉庫の扉の蝶番に触れた。門のときと同じ。下から上に不自然な油。
「ここも、昨日の誰かの手が入っている」
ユリウスが頷く。
「昨日は、王都からの使者が来た。庶務局の男が、“報告書の回収”と言って。私は会わなかった」
「会わなかったのが良い保険になりましたね」
「やはり、保険という言葉を使うのだな」
「まだ説明は要りません。台所が先――」
鍵を回すと、音が遅れた。良くない音。鍵穴の中に、粉が入っている。金属粉でも土でもない。指先で確かめる。滑る。石鹸粉。鍵跡を“消す”ための古い手だ。
扉を引くと、乾麺の木箱が壁沿いに積まれている。箱の側面に、微かな線。横倒しにした痕。**“数が合って見えるように箱を回転”**させた。
私は数え、測り、重さを見積もった。足りない。帳簿の数字より、三箱分。
奥の棚に、花の刺繍に似た糸くず。ラベンダーの香り。義娘の手拭いと同じ香りの系統。台所と倉庫が“香り”で繋がった。
扉を閉める直前、外から足音。二人。
私はユリウスに目線で合図し、扉の陰に身を寄せた。
「さっさと済ませろ」「鍵粉はもう足りねえ」
低い声。事務職の靴が砂利を押す音。
扉が開く寸前、私は内側から声を出した。
「倉庫監査です。遅い時間に、感心な働きぶりですね」
扉がピタリと止まり、息が二つ止まった。
私は扉を外へ引き、光の中に出た。
片方は、さきほどの笑顔の男。もう片方は、背の高い、腕に薄い墨の線。羽飾り――七枚。
私は見下ろした。地面に、白い粉の足跡。
「石鹸粉は、湿ると匂いが残ります。善意の匂いに似ているから厄介です。よく香りがしますね」
男たちは、弁解の言葉を探す口の形をした。しかし、言葉は出なかった。
「報告は明朝、公開で行います。公開監査は、逃げ道を作らないための最小限の残酷です。――今夜はこのまま帰りなさい。あなたたちの上にいる人にも、私の宣言を伝えて」
私は扉を閉め、鍵を回した。粉の残りは、わずか。鍵の中の音の遅れは、次第に消えた。音が戻る。
◇
夕餉。
鍋の蓋を三つ鳴らした。
義娘は、朝よりずっと台所に近い場所に座った。私はスープを少し濃くし、パンを水で湿らせて、鉄板で温め直す。古いものを、今日の温度に連れ戻す。
「今日の宿題は?」
私は匙を渡しながら訊ねた。急がず、見下ろさず、並ぶ高さで。
義娘は、器の縁に唇をつけ、少し考え、それから言った。
「すき、の、ことば……“まる”」
「丸?」
「おわりじゃなくて、かえるやつ。ここに」
彼女は胸の前で、両手で小さな円を作った。
十は円になる。遠い誰かの手紙の一行が、私の記憶のどこかで薄く光った。
「いい言葉です。丸は、終わりじゃなく、帰り道の形。今日の記録に残します」
私は監査日誌を開き、書いた。義娘、“好き”=丸(帰還の形)。
ユリウスが、パンをちぎり、黙って頷いた。
「……保険の話だが」
「今夜の規程は長いですか?」
「短くする。保険は、身代わりのことだ。何かが壊れるとき、家の中で、壊れるべきものを先に壊す。そうすれば、人は壊れない。私は、それを選んできた。黙ること、引くこと、悪評を背負うこと。――それで家族が守れたら、安いものだと」
私は、彼の言葉の温度を測るように、沈黙を一拍置いた。
「安くはありません。身代わりは、消耗品ではない。台所で言うなら、鍋敷きは焦げを受けるけど、鍋そのものではない。あなたは鍋です」
「比喩が、家庭的だ」
「監視妃の本職は、家庭です」
義娘が、パンの欠片を指先で摘み、彼の皿にそっと置いた。丸い形に見えるように、二つをくっつけて。
ユリウスの喉が、かすかに鳴った。
「ありがとう」
「臨時規程は、義娘の前で“ありがとう”を言う、でした」
「守る」
◇
夜。
私は、短い形式回を書いた。
――《監視報告書:初日(夜間)・台所および倉庫監査》
【概要】
一)台所:動線と音の復旧。鍋蓋二→三。義娘の“好き”=丸。
二)寝室:湿度の芽を摘む。夜間の水やり禁止。
三)帳場:白蝋の偽印章(羽飾り七)。報告書様式ズレの常習性。
四)倉庫:鍵穴の石鹸粉。乾麺三箱分の不足。加害側の“善意の匂い”戦術。
【暫定結語】
**“被害者面の報告書”**は、家の静けさ(音のない家)を好む。音が戻れば、彼らは居心地を失う。
【次手】
翌朝、公開監査を予告。偽印章の出所、羽飾り七の墨筋を追跡。義娘の“丸”を家の合図に採用(三拍+丸)。
筆を置くと、窓の外で鴉が鳴いた。夜の合図。
私は窓を少しだけ開け、湿った空気を一杯分だけ入れた。夜の匂いで家の境界を描き直す。
廊下を渡る足音。ユリウスだ。
「明朝の公開監査、広場でやる。人を集めるのは得意じゃないが」
「音を集めると思ってください。家を直すのに必要なのは、立派な演説ではなく、等間の拍。――拍は、広場でも通用します」
彼はうなずき、踵を返した。
私は梁の手拭いを見上げ、丸の形に端を折ってみた。花の刺繍が、輪の中で、少し笑った。
そして、ランタンの火を指で狭めながら、私は小さく呟いた。
「明日、音で嘘を剥がす」
(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:台所が喋ります。公開監査の準備編。)