第12話「宮廷前庭、公開監査――余白を法に返す」
朝は鍋蓋二拍。外へ出る日だ。音を少なめにして呼吸を温存する。
王都からの使令が夜明けに届いた。臨時試行の報を受けた王宮が、「前庭での公開照合」を求めてきたのだ。紙は厚く、言葉は冷たい。けれど、鍋は今、ここ。ここから王都へ拍を持っていけばよい。
義娘は柱に小さな丸を二つ描いて私を見上げた。
「いってきますのまる」
「受け取った。ただいまは、夕方に」
◇
王都は正しい直線でできている。清廉書式の外観と同じだ。だが直線は、曲がり角で驚きを生む。
宮廷前庭。噴水が一拍遅れて落ち、白い石は余白みたいに眩しい。
私は三・二・一で始めず、木匙一拍を先に置いた。柔らかい制止。
「辺境レスト侯家の監視妃、エリス・ノール。台所の簿記と鍋の拍で、告発文の現場整合を照合に参りました」
階段上から、監察官と、条文の束を抱えた書記局員。その陰に、顧問メンデス。彼の笑みは、石像の口元ほど固定されている。
監察官が言う。「手続に従い、順序立てて」
「順序こそが、私の主題です」
私は掲示板を立てた。
——条三:制止=拍の復旧(音・匂い・言葉)。
——条五:複式簿記(火・手・口/音・匂い・言葉)。
——条七:慈悲枠=丸(帰還合図)。
板の下段に、空欄を広く取る。余白は、法の呼吸でもある。
まず、擦り出し。白→灰→赤。
次に、乾麺の粉の粒度実験(ひねり折りの粉)。
最後に、油染みの向きの図。台所/倉庫/裏口の尾が宮廷の地図の一点で交わるのを、階段下に大きく描く。
「交点が、路地の角。そして川向こう。日銭の回路は、王都の清廉書式に写らない。ならば、写る側を暮らしに寄せる」
監察官が口を開く。「君の語は比喩が多い」
「比喩は翻訳です。法と台所の言語は異なる。だから拍で同期を取る」
私は鍋蓋三拍を鳴らした。前庭に短い金属音が走り、噴水が二拍遅れて応える。
「三は集合」「二は戻し」「一は終い」。
被害者面の匿名告発文は、どの拍にも乗っていない。余白は美しくても、呼吸していない」
書記局員が半歩進んだ。「では、君の主張を条文で示してくれ」
私は事前に用意した短文草案を出す。
——《条三追補》制止は、現場における拍の復旧を含む。
——《条五追補》会計監査は、台所・倉庫・帳場の複式(火・手・口/音・匂い・言葉)で行う。
——《条七追補》公開監査は慈悲枠(丸)を設け、帰還を制度化する。
文字は短く、余白は広く。私は空欄の束を掲げた。
「反対する者は、ここに生活の言葉で補正案を書いてほしい。顔だけ清廉な文は、鍋の前で萎む」
ざわ、と衣擦れ。宮廷前庭にも生活を持つ者はいる。洗濯人、厨房係、衛兵。彼らが空欄を受け取り始めた。
メンデスは動かない。やがて、静かに言った。
「君の方法は詩だ。法は詩を受け取らない」
「台所は詩と法を同時に消化します。詩を火で煮て、法を塩で整える」
私は懐から、鍋敷きを出した。石が刺さった跡、焦げ。
「昨夜、家を守った焦げです。恥の書式に見えるものを、誇りに読み替える。戻し儀の生活版。これが保険=余白の実体」
前庭の端で、厨房係が目を細め、丸を描いた。
監察官が立会い書に短く追記する。「前庭試行、本日限り承認」
効力は、これで充分だ。遠さに仮の橋が架かる。
◇
照合の締めくくりは、公開調書の読み上げ。
私は短句を選び、早口を禁じた。
「白は灰へ。灰は赤へ。袋代は科目に。返却票は子どもの目線に。油の再生は台所勘定へ。乾麺は小分け禁止、量り売りは広場一本」
等間で言葉を置くと、罵声は生まれない。怒りは急を好むからだ。
最後に、丸。
私は胸の前に小さな円を描く。
「ここまで理解した者、丸を」
前庭に、目に見えない帰還がいくつも咲く。王都にも家はある。家があるなら、拍に従う。
メンデスは、空欄にわずか二行を書いて、差し出した。
——袋代、公印で保全。返却は掲示と併記。
美は短いとき、役に立つ。私は採用の印を押した。
◇
夕刻、屋敷。
戸を開けると、義娘が大きい丸を描いて待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
ユリウスが、普段より上手な丸で続ける。彼の線はまだぎこちないが、等間だ。
私は心の列に今日の語を書き入れる。
好き=はし(遠さにかける橋)。
そして、台所に鍋敷きを戻した。ここが彼の席だ。恥ではなく、誇りの席。
夕餉は簡素に。戻り豆と黄の丸。
義娘が言う。「きょうのうた、『はしのうえでただいま』」
「いい題だ」ユリウスが、木匙で二拍を打つ。
私は鍋蓋一拍で締め、笑う。「三・二・一。はい、ただいま」
◇
夜の形式回。
――《監視報告書:第十二日・宮廷前庭公開監査》
【施行】
・条三・五・七の追補案を前庭で提示。空欄(余白)を配布。
・擦り出し(白→灰→赤)、粉粒度、油尾向の現場照合を公開実演。
【結果】
・前庭試行の当座承認。袋代科目・返却掲示・再生配当の王都接続。
・丸の帰還合図、宮廷掲示へ子ども目線で導入。
・顧問メンデス、二行の実務追記提出。
【所見】
・清廉書式は余白を持つが呼吸がない。拍を接続すれば法は暮らしに降りてくる。
【結語】
鍋は今、ここ。遠さには橋、橋の上でただいま。
灯を落とす寸前、ユリウスが言った。
「君がいないと、私の保険は余白にならなかった」
「あなたが呼んだから、返事ができたんです」
義娘は半分眠った声で、「あした」と言い、柱に小さな丸を一つ。
家の灯りは、今日も先に。恋は、今日も後から、拍に乗って追いかけてくる。