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第1話「赴任。監視妃、就任します」

 辞令は、朝の光で薄く透けていた。

 ――本日付で、王城内監務局付・特任監視妃(以下「本官」という)を、辺境レスト侯爵家へ派遣する。任務は以下のとおり。①侯爵(以下「監視対象」という)の素行・財務・人事の監視、②家政の監査と再建、③未成年被後見人(以下「義娘」という)の福祉確保。期日は三十日。遵守せよ。


 人はこれを、契約結婚とも呼ぶ。

 私はエリス・ノール。生家は没落貴族、特技は家計簿の赤字の場所を指で当てること。情緒に乏しいと言われたことはあるが、利き手の親指で紙の厚みを撫でれば、古い帳の数字がどこから改竄されたか、大抵わかる。恋の経験はない。代わりに、条例と規程を愛している。

 婚姻書類は淡々と進んだ。夫――監視対象――の名は、ユリウス・レスト。王都では「冷遇の侯」などと不名誉な渾名で囁かれている。冷たい、無関心、婚姻に不在、娘に無頓着。噂は大きく、証拠は小さい。だから私は派遣された。


 王都から東へ三日、舗装の切れ目で揺れが変わった。馬車の窓から見えるのは、黝い土と、風に倒れた案内杭。秋の端、空気は乾いていて、音が遠い。

 屋敷の門前に着くと、表門の蝶番が泣いた。油が切れている。だが金属に残る薄い艶は、最近ぬられた痕跡でもある。塗布の向きが雑だ――下から上へ。職人であれば、上から下だ。誰かが、慌ててとりつくろった。


「本日付で赴任しました、監視妃エリスです。開門をお願いします」


 門衛は困ったように帽子を握り、私の肩書を三度ほど口の中で転がし、理解した顔になって鍵束を探った。

 中庭は、思っていたよりも静かだった。荒れてはいない。ただ、使われていない匂いがする。洗って乾かして、仕舞われた布物に似た、正しさの匂い。人の暮らしがその場から抜けると、正しさだけが残るのだと、私は知っている。


「レスト侯、監視妃がお見えです」


 侍従が声を飛ばすと、階段の踊り場に影が立った。

 ユリウス・レスト。噂とは違い、痩せすぎてもおらず、必要なだけ筋肉があり、目は涼しい。無表情だが、無感情ではない。彼の足運びは静かで、踵が床を叩かない。兵士より文官の歩きだ。重い靴音を立てる人間は、重い言葉も立てがちだが、彼は軽い靴音も重い言葉も避けそうだ。


「ようこそ。君が――本官、か」


「規程上、そう称されます。非公式にはエリスで結構です、監視対象」


 侍従が目を白黒させたが、ユリウスは口元だけで笑った。

「契約は理解している。婚姻は法務上の要件を満たす。ただ、それ以上は――」


「業務に関係が生じた場合に限り、検討します。まずは引継ぎと現況の監査から。台所、寝室、会計、そして……義娘」


 義娘の語に、彼の視線がわずかに揺れた。噂が語るのは、彼が娘に無頓着だという話。しかし、この揺れは、無関心の揺れではない。無力の揺れだ。人は、触れて壊してしまうものには近づけなくなる。


「案内を。台所からで構いません」


 私は鞄から薄い革表紙の帳面を出した。監査日誌――私の小さな武器だ。頁には方眼が引いてある。行動、観察、推定、課題、処置。見出しは五つ。


 ◇

 台所の扉を開くと、冷たい小麦の匂い。大量の乾麺が棚に積まれている。備蓄としては優等生。だが、過剰だ。人は備蓄を積み上げることで、不安を積み上げる。

 竈の脇には、油壺。蓋の縁に乾いた油が白く膜になっており、指で触れると粉のように崩れた。最近は使っていない。鍋の底は煤が薄く、一方で鉄の蓋の縁には擦過の筋が密。使う人はいるが、手順が逆。火の扱いに慣れていない人間が、見よう見まねで調理している。


「料理人は?」


「休ませている」ユリウスが答えた。「人手が足りない。いや、足りなかった。家の内が騒がしくて、辞めた者も多い」


 騒がしい。争いがあったということだ。

 私は棚をひとつずつ開けた。粉、塩、干した香草。塩は上品な粒だが、湿りがちな気候では固まりやすい。陶器の壺の底に米粒が混じっていた。湿りを吸うための工夫――誰かがここを守った跡。

 羊脂の蝋燭の切れ端が、木箱の隅に押し込まれている。灯りを節約し、暗い中で手探りで料理をした。蝋は煤を出しやすい。鍋の縁の黒筋は、そこから来た。


「義娘は?」私は問の順序を崩さないまま、少しだけ声を柔らげた。


「二階だ。人見知りだ。……いや、人見知りになった」


 階段の手すりは、子供の手の高さで艶がある。頻繁に触れられている証拠。寝室の前、床板に小さな傷が並ぶ。十歩ごとに、かすかな凹み。靴の踵ではない。木製の玩具の車輪か。往復の癖。

 扉の前で、私はしゃがみ、指で板の目をなぞった。

「ここからここまで、躊躇いの刻みが深い。出たいけれど出られない。扉の外に、良くない声があった時期がある」


 扉が、猫のようにすこし鳴いた。中から、微かな息を呑む音。

「入っても?」私は扉に向けてだけ尋ねた。ユリウスにではなく。


 しばしの静寂ののち、扉が指幅ほど開いた。黒曜石みたいな瞳。頬に、塩の跡。泣いたあと、涙を拭う布がなかったのだろう。

「はじめまして。私はエリス。長い役職の名前があるけど、台所の人、と思っていい」


「たいどころのひと……?」


「食べたいものを、言葉にするお手伝いをする人、とも言える。君の好きなスープ、知りたいな。知ったら、それを作る。別に今すぐ答えなくていい。今日じゃなくても、来週でも」


 私の声は、書類を読む時よりもずっと遅い速度で出た。言葉は、速さで強制になり、遅さで居場所になる。

 扉は、もう少しだけ開いた。小さな影――義娘は、手に布を握っている。手拭いの端が波打って、そこに刺繍があった。ぎこちない花。

「……あったかい、においのやつ」


「良い定義だ。具体名は後でいい。台所に、花の刺繍を置いておいてくれる? 香りの案内になる」


 義娘は、布をそっと差し出した。私はそれを両手で受け取った。手拭いの端は酷く固く、洗剤が強すぎる。皮膚が荒れている。

「ありがとうございます。これは、台所の標識にします」


 ユリウスが、目線だけで礼を言った。彼は言葉を出さない。出せないのか、出さないのか。観察は続く。


 ◇

 応接に戻ると、私は第一回の簡易報告を口述した。

「監視報告書(抜粋)。対象家屋、表門蝶番の油膜は下から上の不正塗布。見栄えの改竄の可能性。中庭、清掃状態は良。ただし生活の温度は低。台所、備蓄は過剰、使用手順に逆行あり。家政の空白を非専門者が埋めた痕跡。義娘の生活用品は不足。洗濯用洗剤の強度が高く、肌荒れのリスク。監視対象は寡言だが、娘への接触を恐れている兆候あり。総評――“壊れ物の家”。最初に直すのは、音である」


「音?」ユリウスが、初めて単語で問い返した。


「暮らしには拍子がある。朝の鍋の蓋の小さな音、夜のコップの置かれる位置。音の等間は、恐れをほどく。台所の改修は、明日から。今夜は、湯を沸かしてスープを作る。義娘の定義――“あったかい匂いのやつ”に適合するものを」


「料理人はいない」


「本官がいる」


 ユリウスは、短く息を笑いに変えかけて、それを喉で止めた。止める癖は、長い。

「材料は?」


「面倒なら、私が見繕う。だが先に、あなたに質問。噂について」


 彼の目が硬くなる。私は、机上の紙を一枚取り上げた。王都から送られてきた、不首尾な報告の束。筆致は同じ、押し手の跡が浅い。すべて、同じ机の同じ位置で書かれた。

「“冷遇の侯”、という流言。発信源の一部は、報告様式を装っている。これは役所の書式を真似ていますが、統一番号の位置が三指分ずれている。官の書式に慣れた手ではない。“被害者面”に長けた者が、善意の証言の顔をして、悪意の数字を置くときに使う手だ」


「君は、私を擁護するために来たわけではない」


「私は、事実の味方です。擁護は不要。数字と塩の粒度で充分に語られる。――ところで、あなたは台所の音を覚えている?」


 ユリウスは、少しだけ目を伏せた。

「昔は、朝に――鍋の蓋が三つ鳴る音がした。母が、癖で蓋を回して、少しずらして、置いた。あれは……家の音だった」


「取り戻しましょう。三つの音。今夜は一つでいい。明日は二つ。三日目に三つ」


 私は立ち上がった。台所へ戻る。鍋を選ぶ。重すぎる鍋は音が死ぬ。軽すぎる鍋は音が逃げる。音が生きる重みの鍋を、私は知っている。

 火を起こし、湯を沸かす。香草を砕く。乾麺は避けた。乾麺の便利さは、不安の形と似ている。今日は、匂いを先に立てる。

 義娘の手拭いを、台所の梁にかけた。花の刺繍が、少し笑った気がした。


 ――第一音。

 鍋の蓋を、静かに、わずかに回し、三つの位置に置く。金属の擦れが、低く、短く、三度。

 部屋の外の廊下で、足音。小さな靴。義娘が、扉の影に立っている。匂いに釣られて。

「入っても良い」私は言葉に許可の輪郭を与えた。「ここは、君の台所だ」


 義娘は、慎重に一歩を置いた。板の目が軋む。音が、家に戻ってきている。

 私は器にスープを注ぎ、匙を添えた。香りは、淡い。人の恐れを驚かせないように、最初の夜は薄味から。

「熱いから、ふうふうしてね」


 義娘は真似をする。ふう、ふう。息の音が、拍子の二拍目になる。

 ユリウスは、敷居で立ち止まり、二人を見ていた。

「あなたも、どうぞ」私は二椀目を差し出した。「監視対象の栄養状態は、対象の意思に関わらず、監視妃の責務です」


「それは、規程に?」


「今、この場で制定しました。臨時規程第一号。効力は本夜に限るが、延長の可否は義娘の笑顔による」


 ユリウスは、匙を受け取り、半分ほどで止め、息をついた。「……温かい」


「定義に合致しました」


 義娘が、器の底を覗き込み、慎重に言った。

「したのほうに、ちいさい……なにか」


「豆。あした、名前を教える。今日の宿題は、好きの言葉を一つ見つけること。食べ物でも、音でも、色でもいい」


 義娘は頷き、器を抱えたまま、私とユリウスの間を往復するように視線を揺らした。彼女は、二人の間に橋を架ける役目を、すでに知っている。

 私は、鍋の中の残りを見て、明日の段取りを頭に描いた。塩は粒度の違う二種を混ぜ、パンは古いものに水を打って温め直す。朝は、鍋の蓋を二つ。夜に三つ。


 ◇

 食後、私は寝室の下見をした。

 ベッドの足元、床に小さなメジャーの刻み。誰かが、身長を測っていた。最後の印が、義娘の肩の高さ。日付の欄は空白。

 クローゼットの端、縫い目の荒い修繕。大人の手ではない針。指に残った硬い角質。――私は、推定を日誌に書いた。前任の家政の空白を、義娘が自分で縫って埋めた。

 窓の鍵は内側からしか回らない型。だが外枠に傷。誰かが外から開けようとした。あるいは、外に向けて閉め直したか。庭側の地面に、踏み跡が古く残る。足幅は広く、踵の磨耗が偏る。騎士の靴ではない。事務の男。

 数字と傷は、言葉より饒舌だ。私は、薄く笑ってしまった。謎は、台所の火に似ている。点け方さえ知っていれば、静かに明るい。


 廊下に戻ると、ユリウスが待っていた。

「君は、よく喋る」


「規程と必要に応じて。――あなたは、よく黙る」


「それが、保険になることもある」


 先刻の表情の意味が、文になった。

「保険?」私は、単語に付箋を打つように、口の中で反芻した。「今日のところは、保留。明日、改めて説明を求めます。言葉は、台所の火みたいに、強すぎると焦げる」


「焦がしたことがあるんだろう?」


「人はみな、一度は。私は、規程で焦げを落とすのが上手いだけ」


 ユリウスは、ほんの少しだけ肩を落とし、頷いた。

「今夜は、ありがとう」


「臨時規程第二号。“ありがとう”は、義娘の前で言うこと。彼女の辞書に、必要な語だから」


 彼は短く、しかしはっきりと「ありがとう」と言った。廊下の空気が、わずかに変わった。音の等間が整う。

 私は日誌に、最後の一行を書き足した。

 処置:第一音復旧。課題:第二音、第三音の導入。補足:噂の根を追う。被害者面の“報告様式”の偽造を洗う。


 灯りを落とす前、私は梁の手拭いを見上げた。刺繍の花は、夜の湿りに少し重くなり、しかし形を崩さない。

 家は、壊れ物だ。だが、壊れ物には手順がある。最初に直すのは、音。次に、匂い。最後に、言葉。

 監視妃の仕事は、監視だけではない。

 ――本官、就任初日。家に、ひとつめの拍を置いた。


(本話が少しでも良かったら、**ブクマ+★**で応援いただけると次の“業務”が進みます。次回:台所が喋ります。)

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