第9章【第5話:降ろしてくれ】
第5話:降ろしてくれ
霧のプラットフォームは、無音だった。
いや──よく耳を澄ますと、ゴンドラの中から小さな声が重なって聞こえてくる。
──降ろしてくれ。
──まだ家に帰ってないんだ。
──あれは、事故じゃなかった。
どの声も、地の底から響くような湿り気を帯びていた。
ナオは息を潜め、視線を巡らせる。
ゴンドラの窓は全て真っ黒で、中は見えない。
ただ、外から何かが押し当てられ、ガラスがたわんでいる。
「……小林!」
少し先のゴンドラの影に、整備服姿の男が立っていた。
しかし、その顔は黒い布のようなもので覆われ、輪郭すら定まらない。
男はゆっくりとこちらを振り返り、口のない顔で「乗れ」と示した。
足元の霧が急に渦を巻き、ナオとシュウの足首を絡め取る。
次の瞬間、何本もの腕のようなものが霧から伸び、二人を引きずろうとする。
皮膚に触れた部分が冷たく、ざらついていく──影が剥がされている。
「先輩っ!」
シュウが警棒を抜き、絡みつく腕を叩き折る。
だが叩き折ったはずの腕は、霧に溶けてすぐに再生する。
遠くで、観覧車がゆっくりと回転を始めた。黒いゴンドラが一基ずつこちらに近づいてくる。
「……ここで乗ったら終わりや」
ナオはポケットから、園内非常用の閃光弾を取り出した。
だが、撃ち込む前に三浦の影が間合いを詰め、腕をがっちり掴んできた。
その力は人間離れしていて、骨が軋むほどだ。
耳元で、三浦の声が低く囁く。
「俺は……降りられなかった。だから、お前が──」
その言葉を遮るように、シュウが後ろから三浦に体当たりした。
掴まれていた腕が離れ、ナオは閃光弾のピンを引き抜く。
「……もうお前らを縛らせへん!」
爆ぜる閃光と轟音。
霧が一瞬だけ白く輝き、腕の群れが悲鳴のような風を上げて消えていく。
その隙に二人は走り出し、反転した観覧車の搭乗口へ飛び込んだ。
ドアが閉まる。
外の景色が揺れ、やがて色が戻っていく──はずだった。
しかし最後の瞬間、窓の外に、真っ黒な三浦の顔が貼り付いていた。
無表情のまま、唇だけがゆっくりと動く。
──次は、お前の番だ。
次の瞬間、現実の観覧車のホームに戻っていた。
辺りは朝焼けに染まり、スタッフたちが慌ただしく出勤してくる。
だが小林の姿は、やはりどこにもなかった。
数日後。
観覧車は「定期点検」の名目で運行再開した。
ナオとシュウは出勤途中、その巨大な輪を見上げる。
「先輩……あれ、まだ何か残ってる気がしません?」
観覧車の一基だけ、ガラス越しに中が見えなかった。




