序章:影の証人(The Witness in the Shadows)
「三国さん、電話よ」
編集部のざわめきの中で、その声だけが妙にくっきりと三国彰の耳に届いた。デスクに向かっていた彼は、視線を上げることもなく応じた。「今はだめだ。夕刊の締め切りまで30分切ってる。後にしてくれって言ってくれ」
「それが、急ぎの用事だって。なんでも高岡さんからの照会だって言ってるわよ。でも、夕刊の方が優先よね?」
その名前に、三国の手が止まった。高岡——その名を聞いた瞬間、身体が一瞬硬直したのを、自分でもわかった。
「ちょ、ちょっと待って。わかった、すぐ出るよ。そのまま繋いでてくれるかな」
「え、大丈夫なの? 夕刊——」
「ああ、早々君。前から一度校閲してみたいって言ってたよね? いいチャンスだ。今日の夕刊、任せるよ」
「ええ、私に? そんな、急に言われても。心の準備ってものもあるし……」
「いやならいいんだよ。そうそう、こういう仕事は回ってこないぜ」
「……わ、わかったわよ。やらせていただくわ。それにしても急ね」
やりかけの原稿を早々智子に託し、三国は内線を取った。
「三国です」
周囲を気にするように、受話器に口を近づける。
「渋沢です」
その声は、どこか人工的だった。感情の起伏がなく、まるで音声合成のように滑らかで冷たい。
「買い付けに応じてくれたんですね」
「いえ、まだ売買契約を結ぶとは決めていません」
「それなら、どういうご用件でお電話を?」
沈黙が、受話器の向こうから流れてきた。その沈黙が何よりも重かった。
「買い付けに応じる前に、ひとつ頼みがあります」
三国は一瞬、背筋に寒気を感じた。
「はっきり言ってください」
言葉をかぶせるように渋沢は続けた。
「ある新聞記者を——社会的に始末していただきたい」
その言葉に、三国は思わず受話器を落としそうになった。視界の端で、編集部の時計が20分前を示していた。
「始末とは……物騒な話だ。私は、人を傷つけるようなことは……」
「誤解しないでいただきたい。始末というのは、“社会的に抹殺する”という意味です。その記者は私の情報を使って、ある筋から金を得た。いわゆる、アングラ情報を使ったゆすりです」
「それが私に、何の関係が?」
「その記者はゆすった相手からの申し入れにより、情報源を明かした」
三国の口から、音にならない息が漏れた。
記者が情報源を明かす——それは、報道の世界において絶対の禁忌である。
「それで……そいつを、記者として抹殺すると」
「そのとおりです。方法は簡単。ニセの情報を流す」
「だが、すでにその記者は、あなたの正体を暴こうとしていたのでは?」
「だからこそ、あなたの助けが必要なのです」
三国は沈黙した。喉の奥が乾いているのを感じた。
「イエスですか、ノーですか」
「わかりました。話は以上です。もう連絡することもないでしょう」
「あ、待ってくれ。わかった。とにかく話を続けてくれ。それで……その記者というのは、誰なんだ?」
「あなたのよく知っている人物です」
「……俺がよく知っている?」
「河本さん。あなたのデスクです」
耳の奥で何かがはじけたような錯覚がした。三国の中で何かが崩れ落ちていくのを感じた。
河本恒——信頼していた先輩記者であり、師でもあった男。その河本が、ゆすりを?
だが同時に思い出されたのは、数日前の彼の様子だ。どこか憔悴していた。夜遅く、編集部の隅で何かを抱えるように沈黙していた。
電話を切った後、三国は机に戻った。早々智子が原稿をチェックしていた。
「どうだった?」
「……特に大したことはなかったよ」
言いながら、三国は背筋を伸ばした。心の中では嵐が吹き荒れていた。
河本が情報源を明かした? それとも、それ自体が罠か?
——もし、河本が情報源を売ったのではなく、逆に“売られた”のだとしたら?
編集部の蛍光灯の光が、妙に白く目に染みた。三国は自分の手の平に浮かぶ汗をぬぐいながら、心の奥底で一つの決意をかたちにしていった。
「俺は……真実を追う。ただし、それがどんな代償を求めてきたとしても」
密室の呼び鈴が鳴ったとき、彼はすでに戻れない領域に踏み込んでいたのだった。