小説断章:「ファインダーの証言」
ファインダーの中に写った映像は、私の心臓を一瞬にして氷のように凍りつかせた。
昨夜から降り続けた熱帯特有の強い雨が、舗装された路面を黒く濡らしていた。アスファルトはナトリウム灯の光を反射して、湿った鏡のように鈍く光っている。その冷たい地面に、ひとりの男が倒れていた。仰向けになり、まるで棒切れのように全身の筋肉が脱力している。だが、その姿はただの死体ではなかった。
その男──私の恩師でもある戦場カメラマン・加治屋修一は、倒れながらも、右手でしっかりと何かを握りしめていた。
ニコンF3・カスタム仕様。
彼が長年使い続けてきた、重さと風格の詰まった銀塩の愛機だった。
短パンにサンダル、縦縞の半袖シャツ。まるで異国を旅する軽装の観光客のような格好。だが、腰に巻きつけた小さなポシェットの中には、交換レンズ、フィルター、圧縮フィルム──戦場の呼吸を撮るための装備が整然と収められていた。
彼の左手は、血の滲んだシャツの下腹部をかろうじて押さえていた。その部位からの出血は多く、道路に流れ出た赤い液体が、雨水と交じって路面を複雑に染めていた。にもかかわらず、彼の右手は、ファインダーから目を離さず、目の前の光景を必死に捉え続けていた。
足元には、不気味なまでに整然とそろえられた二本の足。倒れた彼の脚は、微動だにしなかった。生命がすでに彼の下半身から遠ざかっていることを、私の本能は察していた。
そのすぐ脇を、迷彩柄の軍服を着た現地兵が、小走りに通過していく。彼の腰には大型の自動小銃──M70タイプが装備され、銃口は地面を向いていた。兵士は加治屋に一瞥もくれず、ただ作戦上の目標地点へと急いでいるだけだった。
だが、その兵士の銃口から放たれた7.62ミリ弾のひとつが、今まさに加治屋の腹部を貫いていたのだ。
私は望遠レンズを外し、標準に切り替えた。
一歩、また一歩と彼に近づくにつれ、ファインダーを覗く目が震え、指先の感覚が消えていくのを感じた。だが、私はシャッターを切った。震える手で、それでも記録しなければならないという意志だけで、何枚も何枚も。
倒れている彼は、苦悶の表情すらも見せなかった。カメラを持つ手には、奇妙な静謐と執念が同居していた。あの人は、最後の最後まで、撮っていたのだ。被写体としての自分自身ではなく──この戦争という状況そのものを、だ。
その光景は、あまりにシュールで、現実味を欠いていた。背景の建物は半壊し、路上には放棄された軍用ジープ。視界の端では、負傷者を搬送するストレッチャーが、血の跡を引きながら揺れていた。
「先生……」
私は呟いた。
風が、雨と煙の匂いを混ぜて吹き抜けた。ファインダー越しに見たその顔は、まぎれもなく私の知る恩師の顔だった。だが、もはやその顔には時間が止まっていた。
シャッターを切る音だけが、静かな証言のように耳に残った。
──その夜。
私は、加治屋の持っていたカメラから、濡れたメモリカードを慎重に取り出した。メカニズムの古いニコンF3には、改造された小型デジタル記録素子が組み込まれていた。遺された最後の映像、それが“誰か”の証明となるかもしれない──その直感だけで、私は翌朝の便で首都プノンペンへと向かう準備を始めた。
その時点で、私はまだ知らなかった。彼が最期に撮った最後の一枚が、戦場を揺るがす“ある瞬間”を捉えていたことを。
だが、その記録はやがて、戦争の真実をめぐる深い渦を引き起こしていくことになる。