第2章「任務コード:S-9」
夜明け前のカンボジア北部ジャングル地帯。濃密な水蒸気が葉と枝のあいだを漂い、虫の羽音と遠くの川の音が絶え間なく響いていた。弘道──陸上自衛隊特別作戦群所属、三等陸尉。任務名「S-9」の現地指揮官は、迷彩ネットで覆われた前線の仮設指揮所に立っていた。
彼の視線は、暗視ゴーグル越しに衛星通信タブレットに表示された最新の上空映像へ注がれている。北部M3村落の東側に設置されたレーダー偽装網が、夜間の航空偵察にもかかわらず微かに反射しているのが見えた。
「状況、更新を」
無線機から部下の冷静な声が返ってくる。「敵対勢力、M3村外縁にて停滞中。武装難民の集団が村内に潜入の可能性あり」
弘道は短く頷いた。任務S-9──それは「不在証明」だった。自衛隊の存在が“公的には存在しない”このエリアで、非公式に活動していた民兵勢力の情報収集および対処を行う。それが彼らの使命だった。
彼の部隊は、正式な自衛隊編成とは異なる。かつて湾岸戦争後に構想された“先制非公式作戦部隊”の流れを汲む存在。指揮下にはレンジャー出身者や元海自特殊警備隊、情報保全隊の選抜兵が混在していた。
弘道は無線を切り、視線を足元の小型トランクに移す。そこには、村外縁で回収された1枚のSDカードがあった。提供者は“タイゾウ”──つまり田井蔵信吾。3日前に村に潜入していた報道カメラマンであり、戦場写真の老練な記録者。
弘道は彼の名を知っていた。過去、バルカン半島の武装衝突で偶然にも同じ戦場に居合わせたことがあった。あのとき、彼のカメラは燃える教会と遺体の間で泣き叫ぶ少年を捉えた。数千万人の目に戦争の“無意味さ”を見せつけた一枚だった。
今回のSDカードにも──何かが記録されている。
弘道は、仮設端末にカードを挿入した。
黒い画面に、淡く画像のサムネイルが並んでいく。炎上する車両、銃撃する少年兵、村の長老の顔を隠す布……。
その中に、彼の視線が止まった。
画面の中央に、倒れた自衛隊員らしき男が写っていた。その周囲には正体不明の傭兵風の人物たち。1人が、明らかに違う“階級章”をつけていた。見覚えのある肩章──それは、かつて国連平和維持軍に所属し、内部告発を行ったことで消された人物に酷似していた。
弘道は写真を拡大し、暗号通信端末を起動した。
「第S-9コード起動。記録者、接触準備せよ。第3交信チャンネルを開け」
数秒の沈黙の後、画面にテキストが流れた。
《認証済:コードEX-04。対象“タイゾウ”は協力者指定。交信承認》
弘道は息を深く吸い込み、ヘッドセットを装着した。
「田井蔵信吾、応答せよ。こちら“弘道”だ」
静かな砂嵐音の向こうから、老いた声が返ってきた。
「……10年ぶりか」
「時間がない。君の写真に、我々の“敵”が写っていた」
「それが……真実だ」
「ならば、共に記録してくれ。記録とは、時に銃よりも重い」
カンボジアの夜に、2人の男の声が交錯した。
その瞬間、戦場は静かに形を変え始めていた。