小説断章:「記憶媒体」
部屋の空気が微かに焦げ臭いのは、焼け焦げた電子基板の臭いがまだ鼻腔の奥に残っているからだろう。
机の上には、半ば解体されたカメラの残骸が無惨に横たわっていた。
銃弾によって破壊されたボディの中央には、鈍く光るガラス片が血痕のように広がり、薄暗い蛍光灯の光を吸い込んでいた。
彼は壊れた愛機の中から、慎重にチップを取り出した。
そこには、たしかにまだ「何か」が宿っている気配があった。
命の残滓、記録の断片。
携帯電話のスピーカーからは、遠く離れた東京の研究者の落ち着いた声が続いている。
「……そのチップが、無事であれば、まだ希望はあります。損傷がなければ、そこに最後のデータが残っているはずです」
「電池が…問題だ。これを外すのが…最大の関門なんだ」
手元のピンセットを構える手がわずかに震える。
パチンと乾いた音をたて、内部電源が切断された。
その瞬間、彼は自分の胸の奥にある何かも、同時に沈黙したような気がした。
記憶の底から、かつてのフィルムのにおいが立ちのぼる。
白い印画紙がゆっくりと現像液の中でゆらぎ、うっすらと映像が浮かび上がる。
それは、父の写真店の暗室の風景。
まだカメラに「血」が通っていた時代。
レンズが目であり、ボディが心臓であり、シャッターが脈拍だった頃の記憶。
「ニコンEF……」
指先で、あの傷だらけの黒い機体の名を呟く。
それはまるで戦友の名を呼ぶような響きだった。
背後で小さくノックの音がした。
ドアの隙間から、かつての同僚、元通信社の若手記者が顔をのぞかせる。
「先生、ずいぶん変わりましたね」
「そうかな?」
「以前の目のギラギラがなくなりましたよ」
「戦場で、もう目が焼けてしまったのかもな」
記者は一枚の紙束を差し出す。そこには、いくつかの航空写真と機影の分析結果が添えられていた。
赤く囲まれたポイントには、**「米軍機、消息不明(国境地帯:飛行制限空域)」**の文字。
「臭うな…」
「先生、またウズウズしてるんじゃないですか?」
「いや、もう俺は血なまぐさい写真を撮るのはやめた」
「どうしてですか?先生は、あの写真を通じて世界の現実を伝えてきたじゃないですか。あれは興味本位なんかじゃなくて——」
「……わかってる。お前の言う通りだ」
「じゃあ、なぜ?」
彼はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと語りはじめた。
「最後にシャッターを切ったのは、瓦礫の中で娘の遺体を抱いていた男の顔だった。
焼けた皮膚がはがれ、目も口も乾ききって、それでも赤ん坊を離さなかった。
だが、その写真がニュースになったのはたった三日だった。
四日目には、別の『炎上』が話題になってた。
……そういう世界なんだ、今は。
俺は……カメラで人間の死を『切り売り』してたのかもしれん。
それを、もう一度やれとは……ちょっと思えなくなってしまった」
記者は何も言わず、しばらくその顔を見つめていた。
「……でも、あのチップにはなにが残ってるんですか?」
「たぶん、消されたはずの事実だ」
「米軍が消したがった情報ですか?」
「いや。消したかったのは、俺たち全員が見たくなかった現実なんだ」
モニターの画面に、チップから読み込まれたデータの最初のサムネイルが表示された。
そこには、赤いマーキングで囲まれた米軍機の尾翼と、後方にうっすらと映る、見覚えのない巨大な構造物のシルエット。
彼は静かに呟いた。
「これは、まだ戦争の終わりじゃなかったってことか」
そしてもう一度、レンズを覗く手の震えを抑えながら、言った。
「今度は、誰かの命を売るためじゃない。
……俺自身の、記憶のために撮るんだ」