第5章 コードネーム:ユグドラシル
三国彰がネット上に匿名で流したレポート《JAPAN SECURITY FAÇADE》は、瞬く間に一部のジャーナリストたちの間で波紋を広げた。だが、それは表層にとどまり、主流報道には一切取り上げられることはなかった。
翌朝、新聞社の会議室は静寂に包まれていた。情報編集局長は三国を呼び出し、書類を一枚だけ差し出した。
「休職扱いだ。しばらく社外との接触を控えろという上層部の判断だ」
「理由は?」
「“報道機関としての信頼維持のため”……だそうだ」
机に突っ伏したまま動かない智子を見やりながら、三国は何も言わずに部屋を出た。
ビルを出てすぐ、スマートフォンに着信が入った。番号は非通知。出ると、あの声だった。
「久しぶりですね、三国さん。ジョセフ・マッカランです」
声の主は、元CIA工作員であり、河本と一時期連絡を取り合っていたとされる男。指定されたのは、都内の古びた地下バーだった。
「ユグドラシル計画について、話すつもりがある」
店内は明かりが乏しく、バーテンダーさえ不在だった。ジョセフはウィスキーを手に、既に待っていた。
「君のレポート、読んだ。よくまとめたな。だが、全体像はまだ見えていない」
「なら教えてくれ。渋沢の狙いは何だ」
ジョセフは氷の溶ける音に耳を澄ませながら、静かに答えた。
「“管理されたカオス”。それが彼のゴールだ。国家が制御できる混乱、それによって秩序を演出する」
「秩序を演出?」
「ああ。人間社会は、秩序を“必要としている”と信じ込まされてきた。だが実際は、秩序が崩れる“直前”の状態——不安と緊張の極限——そこにこそ最大の支配が生まれる」
三国はその意味を、ゆっくりと咀嚼した。
「つまり、恐怖を飼いならし、自由を自ら手放させる」
「その通り。ユグドラシル計画は、各国の安全保障インフラと情報空間、経済循環の“根”を一元管理する構想だ。日本はその中継地にされている」
「……国民の意思など関係ないというのか」
ジョセフは、ウィスキーのグラスを静かに置いた。
「関係ない。ただ、利用される。デモも選挙も、SNSのハッシュタグさえ、計画の一部として演出されている」
「渋沢は誰に使われている? アメリカか、中国か、それとも……」
「使われてなどいない。彼は“翻訳者”だ。国境を超えた利害を、国家の言語に翻訳して再構成する存在だ」
「それは……人間の仕事じゃない」
「渋沢はすでに、“人間”のままであることをやめたのかもしれないな」
ジョセフは一通の封筒を三国に差し出した。
「これは“本物の報告書”だ。財団の深層AI部門がシンガポールで作ったモデルデータ。君の出した記事は、その一部の模倣にすぎない。これには、実際に演算された“10年後の秩序”が記されている」
三国はそれを開き、中を覗き込んだ。一見すると経済予測と軍事バランスに見えるグラフと数字の羅列。その中に「政変誘発指数」「メディア信頼値のシミュレーション」などの項目があった。
「これが、未来の脚本か……」
「君が報じるなら、本当に“最後”になるかもしれない。だが、ここで黙れば、君は永遠に“構造の一部”として吸収される」
店を出たとき、外は濃い霧だった。まるで、東京全体がひとつの“ユグドラシル”の根の中に飲み込まれたかのように。
三国の胸ポケットには、ジョセフから受け取った報告書があった。それを開いたとき、彼はもう一度、記者であることの意味を問われる。
この世界が作りものだとしても、自分は“見る者”でありつづけられるのか。
彼の足は、次に進むべき場所へと向かっていた。虚構の秩序の深層へ、最後の“真実”を掘り起こすために。




