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第3章 東南アジアの霧



成田空港の出国ゲート。三国彰は、普段とは違う軽装に身を包み、搭乗券とパスポートをチェックカウンターに滑り出す。表向きはASEAN通商フォーラムの取材——だが実際は、死んだ河本のノートに記された「シンガポールに真実あり」の一文に導かれての単独行動だった。


目的地は、シンガポール国家安全保障局(ISD)。河本が生前、極秘ルートを通じて連絡を取っていたとされる女性官僚の名があった。彼女の名は、アリヤ・タン。


街の清潔さと秩序が過剰に保たれた都市国家。だがその裏では、情報機関が無数の“調整”を日々行っている。三国はチャイナタウンの一角にある小さな書店を訪れた。ここはアリヤと接触するための“連絡場所”として、河本のメモに記されていた。


「Mr. Mikuni?」


英語で、そして驚くほど流暢な日本語で声をかけてきたのは、黒のジャケットにスカーフを巻いた女性だった。切れ長の目に、油断のない視線。彼女がアリヤ・タンだった。


「河本恒の関係者ね。あなたに会うかどうか、3日迷ったわ」


彼女は喫茶スペースの奥に三国を誘導し、カップに茶を注いだ。


「なぜ、彼は殺されたのですか?」


三国の問いに、アリヤは答えない。代わりに、小さな電子端末を取り出す。そこに映されたのは、ある報告書の一部。


《対中世論戦モデル/偽旗作戦:JP-INDO-SG圏内》


「これは我々が傍受した“鏡界研究基金”の内部計画の一部。渋沢は、シンガポール、インドネシア、日本の三国間で“対中強硬論”を世論に植えつけ、その流れで軍事演習と経済枠組みを組ませようとしていた」


「報道を利用して、外交方針を既成事実化する……」


「ええ。そして、河本はそれを見抜いた。彼はあなたの上司としてだけでなく、“最後の記者”だった」


三国は目を伏せた。


「問題はね、ミスター三国——この計画には、あなたの名前も記録されていたの」


アリヤの指が、ファイルの一部をタップする。《対ASEAN情報運用連絡係:Mikuni A.(媒体:東京時報)》


「……俺を使って?」


「いいえ。あなたが“利用される価値がある”と見なされたの。なぜならあなたは、既に“線を越えた記者”だから」


三国は頭を抱えた。渋沢が差し出した情報、エリカの操作するSNSアルゴリズム、堂島が握る広告費の蛇口……すべてが、自分を既に“情報流通の歯車”に組み込んでいた。


「あなたにひとつだけ伝えるわ。日本が今後、アジアにどう向き合うか、それは“真実”ではなく“信じさせた現実”で決まるの」


アリヤは紙のメモを差し出した。そこには、ある人物の名前。


《榊原 柊吾》


「この男が、経済工作の主軸よ。財団の投資部門にいて、インドネシアの港湾、マレーシアの通信インフラ、タイの電力事業……すべて、日系資本で包囲しようとしている」


「河本はそこに……?」


「踏み込んだ。だから消された」


アリヤは立ち上がった。


「あなたが記者であるなら、選びなさい。“事実”を書くのか、“安全な虚構”を提供するのか」


彼女は去り際に言った。


「河本は、あの録音で“国家が国民に罠を仕掛けた”と残した。あなたがそれを暴ける最後の記者よ」


三国は、誰もいなくなったテーブルの上に残されたメモと茶の香りを前に、静かに拳を握った。


この“東南アジアの霧”の奥にこそ、河本の死の意味と、日本の未来の歪んだ鏡像が潜んでいる。


そして彼自身も、知らぬ間に、その鏡像の一部となっていた。



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