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第1章 欺瞞の契約者(コントラクター)



雨は止んでいたが、東京の空気には湿り気が残っていた。三国彰は赤坂の裏通りにある古びたビルの喫茶店に向かっていた。時刻は午後8時半。渋沢宏道との再会が約束されたその場所は、まるで舞台のように無人の静けさを漂わせていた。


ドアを開けると、かすかなベルの音とともに、コーヒーと煙草の混じった懐かしい匂いが鼻をついた。奥の窓際に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げる。その顔に、感情というものはほとんど表れていなかった。


「ご無沙汰しています」


「……こんな場所で呼び出すとは、らしくないですね」


「場所は問題じゃない。通信を遮断できる場所であることが必要だっただけです」


渋沢宏道。元外務省アジア大洋州局の高官、現在は民間の戦略ファンド『鏡界研究基金』の理事長。だが、その実態は、国家安全保障と経済戦略を結びつけ、日米中の情報を操る“影のコントラクター”だ。


「河本さんの件は、誤解しているようだな」


開口一番、渋沢はそう切り出した。三国は答えなかった。


「彼が情報源を明かしたというのは事実だ。ただ、それは彼の意思によるものではない。我々が“そう仕向けた”」


「つまり……ハメたと?」


「そうだ。だが、彼は国家の枠を越えた情報に触れていた。持つべきものを持たず、嗅ぎすぎた。その報いだ」


「それをあなたたちが裁いたというのか?」


渋沢は笑わなかった。「裁きではない。均衡の調整だ」


その言葉に、三国は底知れぬ寒気を覚えた。


「君も理解しているはずだ。今、この国は表層の政策とは別に、“裏の同盟関係”に基づいて動いている。米中の衝突回避と、東南アジアへの影響力投射。その両立の中で、日本は常に“媒介者”であるべきだ」


「報道は、その均衡を壊す存在だと?」


「時としては。特に、真実だけを切り出して報じる報道はな」


三国は言葉を飲み込んだ。


渋沢は手元のタブレットを操作し、1枚のデータファイルを三国に見せた。《ASEAN経済域:対中影響比率および世論形成シミュレーション》


「これを報道すれば、対中融和を唱える日本政府の政策は潰れる。中国系ファンドの流れが日本企業を経由しているという事実は、否定できない。だがその裏には、我々の構築した“戦略的枠組み”がある」


「つまり、“真実”は報じるべきではないと?」


「正確には、“順序”を誤ってはならないということだ」


その瞬間、三国はあのときの電話の言葉を思い出していた。『始末とは、社会的に抹殺することです』。


そして、あの河本の顔。


「君がここで情報を使えば、二つの未来がある。一つは、かつての河本のようになる道。そしてもう一つは……こちら側に立つことだ」


「こちら側?」


「情報を運ぶ者ではなく、構築する者になることだ」


渋沢は立ち上がった。テーブルには小さな封筒が残された。中には、アジア全域に関する国家機密級の経済情報が詰まっている。


「迷ったら、河本の名刺を思い出せ。あれには彼の座標が刻まれていた。君が次に進むべき場所も、そこから見えるはずだ」


そのまま渋沢は、コートの襟を立てて夜の中に消えた。


三国は封筒を見つめた。手が、自然と震えていた。


記者であること——それは、真実に近づくことではない。真実の構造そのものに触れること。そして時に、その構造の一部になること。


雨は、また降り出していた。だが、もう傘を差す気にはなれなかった。



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