1章の6 王星宇の使いが都城に誘う
「兄さん、友達を連れてきてもいい?」
ある日、書堂から帰ってきた虎虎がそんなことを尋ねてきた。
晨風としては静かに暮らしたいが、子供と一緒に住むなら、そんなこともあるだろう。
子供といっても最近の虎虎は、子供っぽさよりも男っぽさの目立つ顔立ちになってきた。人間の見た目でいうと、十六、七歳くらいだろうか。たまに見る角度によって目の中が金に光り、ひどく鋭くなることがあるのが虎らしい。
「かまわないが、桑先生の書堂の子かい?」
虎虎を書堂に通わせ始めたのは、二年ほど前。虎虎は狩りの仕方も知らず、ほとんど晨風としか会わず暮らしているので、今後どうやって生きていけるか心配になって、勉強くらいはさせようと連れていったのだ。一応、李天虎という、人間らしい名前もつけた。
桑先生は突然子供を連れてきた自分に、余計な詮索はしなかった。今度こそ彼の書堂で働いてはとの話はあったが。
書堂に通い始めたばかりの虎虎は、晨風以外の人間を警戒していたが、今では見知らぬ人間とも、ためらわずに話すような社交性を身につけている。
「ううん、さっきそこで会ったんだ。おいでよ!」
虎虎の声におずおずと少年が入ってくる。美周郎もかくやという紅顔の美少年。晨風は思わず息を止めた。
……似ている。いや、彼がこんな子供であるはずがないのだが。自分より年上なのだ。
「私は、十郎と申します。こちらは、李晨風さまですか?」
虎虎は何が珍しいのか、客人の周囲をぐるぐると回って顔を覗き込んだり嗅いでみたりしている。少し、人間同士にしては失礼だ。あとでやめさせるように言わなくては。
「そうだが」
「王星宇さまの使いの者です」
その名前を聞いて、晨風は手にしていた茶碗を取り落とす。
「星宇は、生きているのか?」
「はい、もちろんです。私の主人ですから」
「きみは……彼の親族かい?」
晨風はおそるおそるそれを聞いた。
少年は、王星宇に似ているのだ。
星宇は晨風の幼なじみだが、十年ほど前、晨風がここに来るきっかけとなった戦いで行方不明になっていた。
彼が新皇帝の謀反を企てた首謀者だったという噂もあるが、どこにもいないのだから、詳しいことはわからない。
「いいえ?」
「あの、きみは昔の彼にあまりにも似ているから」
「そうでしょうか」
「とにかく、彼は元気なんだね」
「はい」
よかった、と言おうとして、晨風はその言葉を飲み込む。
よかったわけがない。
かつての君主が死に、その首謀者とされる彼が元気だったなんて。確かに今はもう新しい皇帝がその座に座っているから、彼が断罪されることはないだろうが、それで許される話ではないだろう。法としては罰することができなくとも、少なくとも、自分にとっては。
「王星宇さまは、李晨風さまにお会いしたいと」
「それはつまり、私に彼のところに来いと?」
「はい」
「そもそも、彼はどこにいるんだ?」
「都城です」
「都城? だってあそこはもう、」
一瞬そう言われて、かつて彼と住んでいた都を思い出したが、そこではないはずだ。最後にそれを見たときの、胸を裂くような痛みを思い出す。一面の焼け野原だった。
そこでないとすれば、元々は隣国の首都であった街のことだろうか。
「王さまは、都城を再建されました。今は旧都とも呼ばれています」
「何?」
そんな話は、風の噂にも聞いたことがない。もちろん自分はもう長い間、世間から距離をとって暮らしていたので、自分がただ知らなかったという可能性もあるが。
「詳しい話は、私にはよく……。いらっしゃったときに、王さまにお伺いください」
「まだ、行くとは言ってないが」
「王さまがお待ちです」
晨風はため息をつく。彼に再会する日など、もう二度とないと思っていた。それをこんなふうに、突然に示され、その場で決断を求められても困る。
「兄さんは、友達に会いたくないの?」
不思議そうな顔をして、虎虎が言う。
問われて晨風は戸惑う。会いたいか、会いたくないかで言えば、おそらく会いたいのだ。そもそもそうでなければ、悩んだりはしないだろう。
ただ、行かないと言えばいいだけなのだから。
「そうだね。私は会いたいかもしれないが、会うと動揺してしまいそうなんだ」
「動揺? えっと、兄さんが泣きたくなったり怒りたくなったりするということ?」
「そうだね」
虎虎は笑顔を見せる。
「大丈夫。そうしたら虎虎が兄さんと一緒に寝てあげる」
晨風は苦笑する。虎虎の身長が自分と同じくらいになってからは、寝台が狭くなってきて、虎虎は床に虎になって寝ていることが多くなっていた。虎のときの体重は、もう彼の方が圧倒的に重い。一緒に寝たら押し潰されそうだ。
「だって、虎虎がいればいやなことなんて全部どこかに行っちゃうんだもんね」
そう言う虎虎は得意げだ。自分が子虎のころの彼に言ったことを覚えていて、いつもそれを自慢に思っているのだ。見た目はだいぶ大人っぽくなり、虎になれば完全に成体に見えるが、そんな子供っぽいところもかわいくはある。
「そうだな、一緒に行こうか」
虎虎に向けて微笑もうとして、うまく笑えない自分に気づく。頬が強張っている。ひさしぶりにあの男の名前を聞いて、思っていたよりも緊張していたようだ。
虎虎は嬉しそうに飛び跳ねた。
「都かあ。僕以外にも虎がいるかな?」
「虎虎」
ぽろっと言った虎虎の言葉に、晨風は慌てて低い声で名前を呼んだ。名前を呼ばれた虎虎は、しまったという顔になる。
悪意ある人間に捕まえられて見世物にでもされたら困る。人前で虎にならないように、虎になることができる話はしないようにと言ってあるのだが、やはり人に囲まれるのに慣れていないので、うっかり喋ってしまうのだ。彼らが住んでいる村には、そんなに人がいない。
虎虎のためにも、都がどんなところか見せてやっておいた方がいいだろう。彼が人間として生きていくのであれば、人の多いところで働くこともあるかもしれないのだし。
十郎は、もちろん虎虎が人虎であることを知らないので、虎虎の言葉を気にとめてはいないようだった。
「わかった。準備もあるから、あさって出発しよう。きみが案内してくれるのか?」
「はい」
「それでは、今日はこちらに泊まりなさい。虎虎、準備を手伝ってあげて」
「はいっ」
虎虎はうきうきとしている。客人を迎えて、突然に旅立つことになって、新しいことに興奮しているようだ。
王星宇に再会する。
そのことを考えるだけで緊張のあまり胃が痛くなってくるが、そんな虎虎の様子を見ると、少しは緩和されそうだ。
ふいに、寝室に向かおうとしている様子の虎虎が足を止めて振り返って、じっと十郎を見つめた。
「……?」
その視線に耐えがたくなったのか、少年が口を開いた瞬間、虎虎が言う。
「十郎は不思議な匂いがするね」
言われて、初めてその場に甘さが充満していることに気がついた。虎虎がさきほどからぶしつけに少年の匂いを嗅いでいたのもそのためか。
「芍薬かな?」
少しだけ青さの混じったその香り。芍薬は王府にたくさん咲いていた。
それもまた星宇を思い出して気が滅入るが、彼のところの少年であれば、衣服に残り香があることもあるだろう。少年は自分の袖を口元に持っていって、不思議そうな、困ったような表情をしていた。
「ご迷惑ですか?」
問われて、また過去に流れそうになっていた記憶から現実に引き戻される。
「いや、問題ないよ」