1章の5 虎虎は李晨風に叱られる
人間が虎になることがある。晨風の育った土地で、その伝説は珍しいものではなかった。そういう存在のことを虎人、すなわち人虎という。それは知っていた。
しかし彼が聞いていたのは、長いこと恨みを持っていた人間がついに虎になってしまうとか、嫌われている人間が虎になるとか、そういう話ばかりで、こんな年端のゆかぬ子供ではなかった。人間を嫌って山の麓に住み着いた自分が虎になるならともかく、こんな、天真爛漫な子供が。
しかもこんなふうに、自由自在に人間と虎を行ったり来たりするようなものでもないはずなのだ。
「にいさああん」
虎の子が大声で晨風を呼んでいる。着物がうまく着られないようだ。
とりあえず、人間の姿になるなら多少の社会常識が必要だ。そのために、年上の男性はすべて兄と呼ぶように教えこんだし、全裸で走り回らないようにも教えた。
虎虎は素直で物覚えがよく、ひと月とたたないうちに、おおむね人間の子供らしさを身につけた。言葉についても、晨風が話しかけるので、その語彙を覚えているようだし、最初は虎の姿と人間の姿との切り替えは突然起きていたようだったが、それについてもだいぶ自分で管理できるようになっていた。今日は着物を着たい気分のようだ。
食べ物は人間の食べ物でも問題はないようで、驚くほどたくさん食事をしたりはしなかったので、その点はほっとしたが、成長は人間よりも早いらしい。ついこの間、五歳くらいだと思っていたが、近頃は七歳くらいになっている。
そもそもあまり人目につかない生活だし、そこまで困ることはないのだが、急に子供との共同生活になって、晨風は戸惑っていた。そもそも自分は一人っ子で、あまり年下と接する機会はなかった。
「ほら、これで大丈夫だろう」
晨風が帯まで結んでやると、虎虎は笑顔になって足に抱きついてきた。
「ありがとう、兄さん!」
その頭を撫でてやると、嬉しそうに晨風の周りをぐるぐる回った。
ふと、虎虎の視線が奪われた。部屋の中を蝿が飛んでいるのだ。伸び上がってそれを捕まえようとしている。
「虎虎! その格好で蝿を捕まえるんじゃない」
言われて我慢しようとしている様子が見られたが、視線はそれを追っていた。鼻がひくひくしている。
窓の外に蝿が出ていった。虎虎の視線が外に向く。
「外で遊んできてもいいが、遠くにいくんじゃないぞ。おまえの年の子供には危険がいっぱいなんだ。どっちの体でもだ」
「はい!」
返事はいつものように元気よく、虎虎は駆け出していった。
*
午後になって、急に雲が出てきた。雨が降ってきそうだ。風も強く、今日も嵐になるのかもしれない。
晨風は草堂を出て虎虎の名前を呼んだが、気配はない。
彼は不安になった。本人にも言ったが、子供には外は危険がいっぱいだ。人間であれ、虎であれ。
笠を被って竹林の方に向かう。虎虎は自分が来たところを覚えているらしく、竹林の方を気にしている様子のことが多いことに気づいていたからだ。
雨が降り出してきた。うっかり、川辺で遊んで取り残されたりしていないとよいのだが。
野生の獣が元々育った場所にいること自体はよいことなのだが、ひとつの間違いが命取りになるのもまた真実だ。
「虎虎!」
竹林に入るのにややためらう。雲が厚く、だいぶ暗くなってきている。自分でも、嵐の中きちんと帰ってこられるのかは不安だ。
再度名前を呼ぶ。
「兄さん!」
そのとき、竹林の中から人間の格好をした子虎が飛びかかってきた。
抱きしめて受け止める。
「虎虎! 遠くにいくんじゃないと言っただろ?」
少しだけ声を荒げるが、彼は聞いていないようだ。
「兄さん、あのね。兄さんに贈り物があるんだ!」
どうやら彼はそのことで興奮気味のようで、話を聞いてやらなければ落ち着かないようだ。
子供らしくてかわいいが、雨はだんだんと本降りになっている。
「虎虎。まず、ひどく濡れないうちに家に帰ろう」
抱きついたままの子供を抱えて、向きを変える。
「兄さん、これ見て!」
子虎は腕の中でまだ興奮している。言われて少年が手にしたものに目をやった。赤い羽根だ。鳥の羽根だろうか?
「とりあえずは帰ろう。歩けるか?」
言われて彼は身軽に飛びおりた。こういうところは人間の体を保っていても虎らしい。
「兄さん、これあげる」
彼は再度その羽根を晨風に押しつけた。そのときだった。
「危ない!」
晨風は慌てて少年を抱き込む。すぐそばを折れた木の枝が飛んでいく。強い風で折れたものだろう。
少しだけ肩に熱さを感じ、やがてじんわりとした痛みを感じる。
木の枝がかすったらしい。
「虎虎、帰ることに集中しなさい」
怒られた少年はしゅんとした。
今はのんびり話をしている場合ではない。早く、安全なところまで帰らなくては。
黙り込んだ少年と共に、足早に草堂に帰ってきた。室内に入った途端、さらに雨音がうるさくなった。
少年は服を脱ぐと虎の姿に戻り、体を濡らす水滴を飛ばす。その体を布で拭った。
手早く晨風も服を脱ぐ。
「兄さん、怪我したの?」
露わになった晨風の肩に少し血がついているのを見て、人間に戻った虎虎が驚いたように言う。さっき、木の枝から庇ったときについたものだ。
「大丈夫、たいした怪我じゃない」
布で簡単に拭う。布が触れれば痛みはするが、それほどの傷ではない。虎虎はまた虎の姿に戻ると、机に飛び乗ってその肩の傷を舐めた。彼なりに心配しているのだろう。
晨風はその毛並みをやさしく撫でた。
「虎虎。いつも言っていると思うけど、ひとりで安全に帰れるところより、遠くにいってはだめだよ。天気が悪くなったら、すぐに帰ってきなさい」
虎虎は肩を落として、しょんぼりしている。
「ごめんなさい」
また子供の姿になって抱きついてくるのに、晨風は彼を抱き上げて寝台に座らせた。
自由になった手で虎虎が脱いだ服を拾おうとして、その中に落ちているさっきの羽根を見つける。そっと手を伸ばしてそれを拾い上げた。
「これは、私にくれるのかい?」
「うん! 奇余鳥っていう鳥の羽根だよ」
元気を取り戻して、少年は言った。
「奇余鳥?」
「あのね、奇余鳥の羽根をそばに置いて寝ると、悪い夢を見なくなるんだって。寝るときに、お母さんがいつも僕たちのそばに置いてた。怒らないで。むりやりにとってきたわけじゃないよ。拾っただけ」
言い訳がましく続ける少年の頭に、晨風は手を伸ばす。頭を撫でると少年は虎の姿になって、その手に体をこすりつけてきた。
抱きしめて全身を撫でる。ふと目をやると、少年が脱ぎ捨てた衣服はすっかり泥だらけだった。あちこち探していたのだろう。
この小さなあどけない生き物に対して、愛しい、という気持ちが湧き上がってきた。
何年ぶりだろう。こんな感情を覚えるのは。
「虎虎。怒っていないよ、私のことを考えてくれてありがとう。ただ、行く場所には気をつけてほしいんだ。心配するだろう?」
ふたたび彼の長い舌が伸ばされて、晨風の頬を舐めた。謝罪しているようだった。
晨風は片手で渡された羽根を枕元に置くと、虎の子を抱きかかえて寝台に横たわる。
「寝よう、虎虎。おまえがいてくれたら、いやなことなんて全部どこかに行ってしまうさ」
子虎は嬉しそうに腕の奥に潜りこんできた。
自分でも、なんでそんなことを言ったのかよくわからない。都を離れて五年。今までしつこく自分を患わせていた悪夢が、そんなに簡単に消えるわけはない。そう思うのに、腕の中のあたたかさはそんな気持ちを薄れさせてくれるような気もしていた。
*
そうして何年か経ち、こんなふうに奇妙な生き物と同居しつつも、おだやかな日々がずっと重なっていくのかもしれないと晨風が少しずつ思い始めるようになったころ。
異変は起き始めていた。
あの奇妙で恐ろしく、そして哀しい事件に巻き込まれる先触れ。
それは虎虎が、不思議な少年と出会ったことだった。
※「いよ」または「きよ」は、中国の神獣ですが、正しくは奇余という字のそれぞれ右にとりへんがついた二文字の漢字です。常用漢字以外は文字化けの可能性があるため、「奇余鳥」に置き換えています。