4章の5 李晨風と虎虎は芍薬に思いを馳せる
翌朝。
「夢を、見なかったのか……」
ひさしぶりにすっきりとした頭になっていることに気がついて、晨風はつぶやいた。今までの悪夢もすべて、夢魘の力を借りた星宇が見せていたものだったのか。楽に眠ることができたのは嬉しかったが、星宇を永遠に失ったのだと思うと、そのことはつらい。
ふと、芍薬の香りがした気がして、晨風は客舎の窓を開け放つ。
窓の外に、芍薬の花はなかった。
そのまま、都城があった方角を眺める。
「あ、」
ひらりと窓の外を何かが舞いながら落ちた。
薄い桃色の、花びらが一枚。
晨風は、それが芍薬ではないかと思う。悪夢の中で奇余鳥の羽根が大量に降ってきたように、それも続くかと思われたが、一枚だけだった。
ぱたぱたと足音がする。どうやら起きたらしい半裸の虎虎が、晨風の隣に立って、一緒に窓の外を覗いた。
「十郎が謝ってる」
「え?」
晨風が虎虎を振り返り、彼の意図を尋ねようとしたそのとき、強い風が吹いた。
その花びらはまた舞い上がり、見えなくなった。
「僕ね、十郎に兄さんに謝れって言ったんだ。だからあれは、たぶんそう」
晨風は苦笑した。そんなことを、この虎の子があのひとに言っていたなんて。
「ありがとう、虎虎」
そのことを、彼に感謝したい気持ちになって、晨風はそう言って虎虎の頭を撫でる。
虎虎の言葉を聞いて、自分は星宇から何も求めていなかったと思っていたけれど、それでも傷ついていたのだと晨風は思う。彼が自分に向ける感情には確かに好意もあったけれど、それ以外の危険な感情も多かった。だからあんなものに取り憑かれて、鬼になってしまった。
撫でられた虎虎は、嬉しそうに肩を寄せてきた。
星宇が言っていた詩が浮かぶ。
只為情深偏愴別 等閑相見莫相親(注1)
別れの際に贈るのに値する花は芍薬だけだが、それでも友との別れに思いを募らせるべきで、花の美しさに心を奪われてはならない。
もう一度、消えた都の方角を眺めた。都城。すべてを失った星宇の、儚い夢の城。
あのひとが、今は安らかにいられますように。
この隣の、あたたかい体温に救われている。それを感じながら、晨風はそっとつぶやいた。
「さようなら、兄さん」
終
引用
注1:憶楊十二
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%86%B6%E6%A5%8A%E5%8D%81%E4%BA%8C
参考文献
伊藤清司著、慶應義塾大学古代中国研究会編「中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界」東方書店、2013
赤井益久「NHK カルチャーラジオ 漢詩をよむ 詩人が愛した花の世界 春夏編」NHK出版、2022
松本浩一「中国の呪術」大修館書店、2001
孟元老著、入谷義高・梅原郁訳注「東京夢華録 宋代の都市と生活」2009、平凡社
梅村尚樹「宋代の学校 祭祀空間の変容と地域意識」2018、山川出版社




