1章の2 李晨風は悪夢に悩む
ひっそりと血の臭いが漂ってくる。
晨風は心の中でため息をつく。もう何度見たかわからない。いつもの悪夢。
あのひとは、血の匂いをまとわりつかせて現れる。現実だったときは血の匂いなどしなかったはずだが、花の匂いと混じりあってよく思い出せない。
「小晨、おいで」
子供のころの愛称で自分を呼ぶのは、王星宇。
都城の三大美男子のひとり。兄のように慕っていた、年上の幼なじみ。
兄弟もおらず、十代のうちに両親も病で喪っていた晨風とっては、唯一親密な存在だった。
「なんですか、兄さん」
「これをおまえにやろう」
彼はなんでもないように、庭の花を手折った。
彼の屋敷だったのだから、それもおかしいことではなかったが、大きな花弁はまるで首を切られた人間のように、ごろりと彼の手に落ちる。
「芍薬ですか」
手渡された花弁はほのかに桃色に染まり、初めての酒に酔った美少年の肌のように艶めいている。
「只為情深偏愴別(注1)……だな」
「なんですか?」
うまく聞き取れず聞き返すが、彼は答えなかった。
「小晨、花を贈るのはどういう意味だ?」
花を贈るのは、予祝行為だ。願いが叶うようにあらかじめ祝う行為。
「去っていくひとの魂がここに留まり、ふたたび帰ってくるように。でも兄さん、私はどこにも行く予定はありませんよ」
星宇は微笑んで晨風を見る。その表情に隠された意図は読めなかった。
もし読めたら、何か変わっていただろうか。
そのことは何度も彼の心に浮かんだが、悪夢はいつもその先を考えさせる余裕を彼に与えない。
次の瞬間、体が動かなくなり、彼は倒れる。ここからは記憶でなくて夢だ。だってあの日、自分はなんでもなく屋敷に帰ったはずだから。
「ああ、小晨。飲み過ぎだな。客室に連れていくよ」
それなのに甘い声でそうささやかれて抱き上げられて、晨風は不思議に思う。自分はそんなに酒に弱い方ではないはずなのに。それなのに、甘い花の香りと酒の匂いに意識が薄らぐ。
そのとき彼の背後が目に入る。彼の背後に倒れている官服を着た人物。彼の父。
「……兄さんが殺したの…どうして……」
そう尋ねたつもりだったが、声が出なくなっている。
見上げると自分を見下ろす星宇の袖は、びっくりするほど血に濡れていた。
「小晨、いつかまた、」
意識が遠ざかる。
次に目が覚めると、屋敷は一面の火の海だ。屋敷だけではない。都中が火の海なのだ。
夢の中で晨風はいつも動けない。ただ血にまみれた、兄と慕っていたひとの横顔だけが思い出される。
(兄さん、なぜ……!)
引用
注1:憶楊十二
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%86%B6%E6%A5%8A%E5%8D%81%E4%BA%8C