3章の5 李晨風は王星宇の望みを知る
気がつくと、晨風は何もない、仄暗い世界を歩いていた。
どこに向かっているのだろう。それもわからないまま、晨風はただただ前進していた。
「十郎?」
しばらく行くと、芍薬の香りが漂ってきた。その香りをたどっていく。そうして、膝をついて座っている十郎を見つけた。
前に行ってその顔を覗き込むと、ぼんやりと、うつろな目つきをしている。
「大丈夫か?」
「小晨……?」
その言葉と一緒に、十郎は星宇の姿になった。
「星兄さん?」
晨風は視線を合わせて座り込む。自分のことがわかったのか、かすかに彼は笑顔を見せる。
「よかった、おまえがここに来て」
「星兄さん、聞いてもいいですか?」
さっきから、どうしても消えなかったいやな予感。
「なんでも」
星宇はそう言って、笑みを深めた。
「あなたはもう、死んでいるんですか?」
「そう……、そうだな」
ずきりと、胸に痛みが走る。なんとなく、そんな気がしていた。
「そうだった。思い出した。私はあのとき、父を殺したが結局宮城を守り切れず、承王子と逃げたが、逃げ切れなかった。承王子、お若いのに、私の力不足で、本当に申し訳ないことをした」
ぼんやりと、記憶をたどるように星宇が言った。
そのときの彼の気持ちを考えると、晨風はひどくつらい気持ちになった。
自分の父が、英皇帝を裏切っていたと知ったとき。それでも、彼は父親でなく、皇帝を選んだのか。
あのとき、彼が自分を地方に追いやらなければ、自分は彼のそばにはいられたのに。もしかしたら、いやおそらく、自分も死んだだろうけれど、それでも、少なくとも彼ひとりに、父親殺しを背負わせることはなかったのに。
「それでは、あなたはなぜ、私をここに呼んだんですか」
そうだ。自分は彼にここに呼ばれたのだ。十郎が彼の、なりたかった少年の姿だというのなら。
「……なぜ。なぜだろう」
あどけない子供のような顔で、星宇は考え込んだ。こんな子供のような彼を見るのは初めてだった。
「おまえと一緒にいると、いやなことばっかりだった。いつも、自分が至らない、つまらない人間に思えて……。なのに、死ぬときに思い出したのはおまえだった。わからない。父も兄も、誰の目にも届かないところで、おまえに会えたら、そのときは、私はおまえを憎まずにすむと思って、もう一度、会いたいと」
するすると、星宇の頬に涙がつたう。それを見て、晨風は動揺する。今までずっと年上の、おいかけるだけの存在だと思っていた彼が、こんなふうに、弱さを自分にさらけ出すのがあまりにも意外だった。
「星兄さん。あなたの望みは、それですか」
晨風が尋ねると、彼は首をゆるやかに振る。
「違う、私は、おまえと一緒に、承王子を守って、」
「兄さん。私だって、あなたと一緒に戦いたかったんです。でも、私を遠ざけたのはあなたでしょう!」
堪えきれなくなって、晨風は叫んだ。
そうだ。別に、彼に本当は疎まれていることなどはどうでもよかった。ただ、晨風はあのときに、都城に自分がいなかったことが耐えられなかった。
あのときそばにいたのなら、彼の自分に対する気持ちなど気にせず、命のかぎりに彼を守ったというのに。
「そうだな……、小晨。私はあのとき、本当はおまえにそばにいてほしかった」
「星兄さん」
そんなふうに、今さら弱さを見せてくるのはずるい。もうどうにも、自分が彼に手を差し伸べられなくなってから。
そっと、星宇の震える手が晨風に差し伸べられた。
「小晨、ここに、私とここでずっと一緒にいてくれないか」
「星兄さん……」
つまりそれは、自分も死ぬということなのだろうか。
本当だったら死んだ人間は、この何もない世界に留まらずに、輪廻の輪に戻るのだろう。それなのに、彼はここで悪夢に囚われている。自分も彼と同じように、永遠にこの世界の輪廻の輪から放り出されて、悪夢に囚われるのか。
ひどく魅力的な提案だった。彼は自分を必要としているのだ。そういう形で、彼を自分のものとして引き留められるのなら、それも悪くはない。
そもそも自分もとっくに、あの戦いのときに死んでいたと言っていいのかもしれない。その後の人生なんて、死んだのと同じようなものだった。その後はたいしたことを成しもせず、ただただ、死んだように生きているだけで。
「小晨」
「兄さん」
星宇の両腕が伸ばされた。その腕の中に囚われたら、もうきっと、永遠にこの悪夢から出ることはないのだろう。
その甘美さに抵抗できずに、晨風も手を伸ばす。
そのときだった。
ひらひらと、懐から何かが落ちた。
赤い羽根。奇余鳥の羽根。
──虎虎。