3章の1 虎虎は翼望山で交渉する
虎虎は都城を出て、翼望山の麓まで来ていた。虎の姿でいるときは、本気を出せば、人間の六、七倍くらいの早さで走ることができる。
翼望山には奇余鳥が住んでいる。
それが、昨日船着き場の近くで出会った人虎の老人──人間のときは劉と名乗っていると言っていた──が教えてくれたことだった。
奇余鳥の羽根。それは、自分と晨風が育った山の中でもときどき見かけたけれど、どうやらそこには住んでいないらしかった。
落ちているものを拾っては晨風に届けていたけれど、晨風の悪夢はどうにも、少しの羽根では歯が立たないようだ。晨風はいつも笑顔で「ありがとう、これできっともう悪夢は見ないだろう」と微笑んで受け取ってくれるが、それでも頻繁にうなされている。
奇余鳥。首が三つ、長い尾が六つあり、よく笑う赤くて青い鳥だという。
一番いいのは食べることらしく、鳥くらい自分でも捕まえられる気はしたが、晨風は食べてくれないだろう。晨風は自分には肉を食べさせるが、彼自身ではほとんど口にしない。だからせめてもう少し、いやたくさん、羽根が手に入れられるといいと思っていた。
晨風とはなんだか喧嘩のような形で街を出てきてしまったが、ある程度、全速力で走ったら気分はましになった。あんまり、複雑なことを考えるのは得意ではないのだ。それにしても、なんであんなに怒ってしまったのだろう。
山をうろつきながら、虎虎は反省していた。晨風と喧嘩したいわけではなかったのだ。いつだって、彼を喜ばせたいと思っている。
「でもあいつが兄さんにあんなに触るからさあ。兄さんも、全然いやそうじゃないし」
言ってみるとあまりにもそのとおりで、虎虎は思わずため息をついた。
自分が彼に拾われてから今日まで、彼の笑顔は自分のためだけのものだったし、彼の体温も、自分のためだけのものだった。
あまりにも当然で、それが他の人間に、いや他のどの生物に対しても、自分以外の存在に、向けられるなんて思ってもみなかったのだ。
『虎虎、おいで』
そう言って微笑む、彼のその憂いを帯びた端整な顔。やさしく自分を撫でる、やわらかな手のぬくもり。
思い出すだけで、心の一番奥のところが、きゅうっと絞られるような気持ちになった。好き。恋。そんな言葉を聞いて、きっとそうだと思ったのに。
「兄さんは、あいつが好きなのかな」
今日見た晨風の表情を思い出す。あの男に触れられた彼はなんだか高揚して、いやそうな顔でも、本心から拒否はしていなかったのがわかった。彼もまたそれを望んでいるのだったら、自分が遠慮するべきなのだろうか。
「でもあいつ、人間じゃないしな」
十郎は、大きい方も小さい方もだが、生きている気配がない。見た目は人間のようだけれど、どこか冷たい氷のような匂いがした。彼だけではない。あの都の人間は全員だ。
それがどういうことなのか、虎虎にはよくわからなかったが、あまりいい気持ちはしない。劉も、都城ががらんどうだ、いやな雰囲気があったから寄らなかった、不吉だと言っていた。
「まあ僕も、人間じゃないけどさ。うーん、僕は人間じゃない、のかな?」
言いながらよくわからなくなってくる。晨風は、他に人間がいるときは、人間らしくしなければいけないと自分に口うるさく言ってきて、それを守るには少し努力が必要なので、自分は人間ではない気もするが、別に自分はそんなに虎らしくもないだろうという気もする。暮らそうと思えばできるだろうが、山の中で暮らしたこともないし、獲物をとることもほとんどない。
「兄さんは、人間っぽくするようにって僕に言うのに、僕が人間っぽいのはいやなんだよなあ。そんなこと言われてもな」
劉は不思議な力が使えるが、人間の世界で道士として修行を積んだことがあるのだと言った。
神様を呼んだり、死んでしまった人間の魂や、抜け出してしまった魂に、正しい場所に帰ってもらう仕事だという。それは、とても人間らしい仕事だった。
虎虎は、自分もどちらかを選ばないといけないのだろうか、と考える。劉は、人間らしい生活を自分で選んで生活していた。でも自分はどうなのだろう。山の近くで、あまり人間らしい暮らしはしていない。
晨風に拾われたばかりのころは人間が怖かった。母親を目の前で傷つけられたのだから当然だ。だけど、晨風はやさしかったし、村のひともやさしかったから、今は人間がいやだという感じはない。とはいえ、完全に人間として生活するというのは落ち着かない。
「全部、どっちも虎虎じゃだめなのかな」
今までのように、山の近くで、晨風とふたりでずっと静かに暮らすのが自分にとっても一番いいのだけれど。
晨風は自分を書堂に通わせたり、劉についていった方がいいのではないかと言ったり、どうも自分を遠ざけようとする。もちろん、自分ひとりでも生きていく方法は見つけないといけないのだろうけれど、でも、晨風がそうする理由は、それだけではない気がしている。
あのひとは、誰かが近くにいるのが苦手なのだ。
誰かがいるのがきらいなわけじゃない。それは、自分を見ている彼のまなざしからも、疑ったことはない。
ただ、誰かが彼を去っていくのが怖くて、去られる前に自分から遠ざけようとしているのだ。それはきっと、あいつが彼を遠ざけたから。
「あーあ。僕の方があいつよりずっと、兄さんを幸せにしたいと思ってるのになあ」
虎虎がまたため息をつくと、背後から神々しい声がした。声が神々しいというのも変な話だが、重々しく威厳があって、直接脳内に鳴り響くような声。
『人虎よ。おまえは、私の庭で何をやっている?』
「うわああ」
びっくりして思わず威嚇の吠え声が出てしまった。自分が呼ばれたことに気づいた虎虎は慌てて声の方を振り返る。後ろ向きでもわかる。彼の後ろのその存在は、なんだかやたらと光り輝いていた。
「こんにちは! あ、奇余鳥さんですね!」
首が三つ、長い尾が六つ。赤くて青い鳥。虎虎が思わずその名前を呼ぶと、笑い声が響いた。赤くて青くてよく笑う鳥。間違いない。
「あの、お願いがあってきたんです。食べさせてくれっていう話じゃないので、聞いてもらえますか……?」
また、鳥の笑い声。
「もちろん、ただで、というつもりではないだろうな、人虎」
「あっはい、なんでも! 僕にできることならやらせてください!」
虎虎の言葉に、ふたたび鳥の笑い声が響いた。




