2章の5 虎虎は李晨風の前で泣く
客舎の一室に入った。星宇に会うという目的は果たしたのだから、本当ならもうこのまま帰ってもいいのだが、隣の街まで歩くのに今の時間からでは遅すぎる。それに、復興したこの街を歩いてみたい気持ちも少しある。
荷物を投げ捨てて寝台に座った晨風に、飛びかかるように虎虎が抱きついてきて、押し倒される格好になった。
顔はあどけないが、身長は自分と同じくらいだろうか。力はすっかり自分より強くなっている。虎なのだからあたりまえだが。
「兄さんから十郎の匂いがする!」
彼はいやそうな声でそう言うと、人間の姿のままべろべろと晨風の首筋を舐めた。肩を抱いていた星宇の指先が、戯れるように触れたところだ。見ていたのか。
今日は疲れた。人間はお互いを舐めないと虎虎に言うのも面倒くさくなって、晨風は虎虎のするがままにさせていた。
『だって、虎虎がいればいやなことなんて全部どこかに行っちゃうんだもんね』
ここに来る前にそう言った彼の笑顔を思い出す。彼なりに、励ましているつもりなのだろう。大人の男ふたりが寝台でこんなことをしているというのは、あんまり絵面がよろしくないが。
「この匂い、いやだ」
匂い匂いと虎虎が連呼しているのを聞きながら、晨風はぼんやりと王府の広い屋敷を思い出す。
「芍薬の香りだろ。星兄さんの屋敷にはたくさんの芍薬が植えられていた。たぶん、今でもそうなんだな」
「十郎の匂いは嫌いじゃないよ。でも、それが兄さんについているのはいやだ」
虎虎はするりと晨風の着物の襟元に手を差し込んで、肩を露わにさせるとそこも舐めた。星宇の触れたところだ。
「そんなにしたら、今度は私がおまえの匂いになってしまうだろ」
しつこく舐めている虎虎に苦笑して、晨風は言った。
「兄さんの全部が、虎虎の匂いになってほしい」
思いつめたようにそうささやく虎虎にどきりとする。虎の、縄張り意識があるのだろうか。
虎虎の舌が、晨風の口元を舐める。そんなことは、子供のころからときどきあった。虎なのだからと気にもとめていなかったが、その舌が、いつものように口元だけではなくて、奥に侵入しそうになって、晨風は慌てて彼を押しもどした。動揺したのは、その行為に、思わず自分の官能が刺激されそうになったからだ。
「虎虎、それはだめだ」
「あのね、兄さん。十郎が僕に、兄さんを恋い慕っているか聞いたんだ」
「十郎が?」
「小さい十郎だよ。いなくなる前の夜に、十郎が兄さんが好きだって、お慕いしているって。僕もそうじゃないかって」
前の夜のことを思い出そうとしたが、よく思い出せなかった。自分が一番先に寝てしまったのだろう。
「それで、彼は何を言ってたんだ」
「ずっと一緒にいたくて、幸せにしたくて、触れたいひとと、こういうことをするんだって。もっと、兄さんの深いところに触れて、お互いの匂いをつけ合っていっぱいにするんだって。十郎は兄さんとそうしたいって。言われてわかったんだ。僕も兄さんが好きだ。兄さんにもっと触れたい。十郎にはさせたくない。兄さんはいや?」
訴えるような金に光る瞳に、切実なものを感じて、晨風は動揺した。手を伸ばして虎虎の髪を撫でる。
「虎虎。おまえは私以外と過ごしたことがないから、そう思うんだ。母親の代わりだよ」
「ちがうよ、母さんとは一緒にいたかったけど、全然ちがう。母さんは他の兄弟にも母さんだけど。兄さんは、誰にも渡したくない。さっき大きい十郎が兄さんに触ってるの、食い殺そうかと思った……」
さらさらと涙が虎虎の頬をつたった。思っていたよりも強い感情を見せられて、罪悪感と恐怖を感じる。
「兄さんは、僕以外の人間に触られないで」
しゃくりあげながら虎虎はそれでも晨風を何度も舐めようとした。いつも泣いているのは晨風で、それを舐めているのが虎虎なのに。
虎虎のことはかわいくて、そんなふうに泣いているのはかわいそうだった。でも、それはどう見ても、人間の男だった。
晨風はあきらめて、虎虎をこれ以上苦しめないようにするには、本当のことを言うしかないと思う。
「虎虎。私は誰かを愛したりしない。誰も近くには置くつもりはないんだ」
「だって、兄さんは僕を拾ってくれたでしょ?」
「だから、それはおまえが、虎だと思ってたから。私は、人間と暮らすつもりはずっとなかったんだ。おまえだって知ってるだろう、私ができるだけ人間と会わないようにしているのは」
虎虎は子供がわがままを言うように首を振る。
「変だよ! 兄さんは僕が虎なら一緒にいるのに、人間だったら一緒にいられないの? どっちも虎虎なのに?」
言われて晨風はぎくりとする。もちろん虎虎にとっては、なんの違いもないのだ。
「虎虎のことはかわいいよ。だけど私にとっての虎虎は小さな子虎だよ」
初めて手にした、持ち上げられるほどのあの小さなあたたかい生き物が、彼にとっての虎虎だったことは確かだ。
それでも我ながら、理不尽なことを言っているのはわかっている。人間の姿でも虎の姿でも自分より体重が重くなった虎虎がもう、子虎ではないことぐらい、自分だって十分にわかっている。ぼたぼたと涙をこぼしながら、虎虎が言った。
「兄さんは、あいつのせいで人間が全部きらいなんだよ。全部の人間があいつじゃないのに」
虎虎は誰とは言わなかったが、すぐに誰を指しているかはわかった。自分でも、心当たりがあるからだ。
「あいつとか言うな。私より年上だ」
「見てたらわかるよ。兄さんは、あいつに恋してたんでしょう。だけど、あいつはたぶん兄さんにいやなことをしたんだね」
「何言って、」
「だって、今日の兄さん、すごく変だよ。こないだの小さい十郎みたいだ」
「虎虎」
「いやだ。ねえ兄さん、あいつのことばかり見ないで。僕は母さんをあんな目に遭わせた人間が嫌いだけど、兄さんのことは好きだ。桑先生も好き。人間には、色々なひとがいるって知ってる。だけど兄さんは、僕もあいつも、同じ人間扱いしてる」
動揺するかもしれないと、そう言ってあったじゃないか。
そのときに慰めるのは、虎虎がやってくれると言っていたのに、動揺しているのは、自分ではなくて彼の方に見える。
「虎虎、やめなさい。生意気なことばかり言うな」
「そういう、親みたいなことばっかり言ってごまかさないで」
金色の瞳が、射貫くように晨風の顔を見てくる。どんな噓も、すぐに見抜いてくるような、まっすぐなまなざし。
「親みたいって、親のつもりだよ」
噓ではない。虎虎がうまく乳が飲めないときも、親を恋しがって鳴き続けた夜も、いつだって面倒をみてきたのだ。
「もういいよ!」
虎虎はいつもうるさいし感情を隠さないが、最近はずいぶん落ち着いていたし、基本は機嫌がいいことが多かった。こんなふうに、子供みたいに騒ぐなんて、しばらくぶりだ。ちらりと晨風を見た虎虎はさらに何かを言おうとして、首を振りながら両手で自分の涙を拭った。
「ちょっと出かけてくるから、探さないで!」
ぱっと外に出ようとした虎虎に、晨風は思わず声をかけてしまう。
「物をとるときは、きちんと金を払うんだぞ。夜禁があるから、暗くなる前には帰って──」
「わかってる!」
ぱたぱた駆け出していく虎虎の後ろ姿を見送って、晨風は心配になった。こんなに人間の多いところで、大丈夫だろうか。いや、彼くらいの背格好の人間の年齢になれば、ひとりで働いている者なんていくらでもいるのだが。
『親みたいなことばっかり言ってごまかさないで』
言われた言葉が胸に刺さる。確かに、ごまかしている側面もないわけではない。しかし。
「だって、おまえが乳がきちんと飲めないころから、私が面倒を見ているんだぞ」




