2章の4 李晨風は王星宇と再会する
一晩少年を待ってみたが、まったく帰ってくる気配がない。仕方ないので、翌日晨風と虎虎は都城に出発することにした。
都城で滞在する予定の客舎の名前は聞いていた。もうそんなに遠くない。そこに行けば、いずれは再会できるだろうし、王府、つまり王星宇の館の場所が前と同じかはわからないが、小さくはないだろうから、きっと街の住人が知っているだろう。
きょろきょろしている虎虎がはぐれないよう、適当に目をやりながら活気のある飲食店が立ち並ぶ区域を歩いていく。
「お兄さん、飴はどうだい?」
声をかけられると虎虎が困ったように晨風を見た。こんなふうに、物を売られることは彼にとって初めてなのだ。
「また、客舎に着いたら色々回ってみような」
そう晨風が声をかけると、虎虎は嬉しそうに頷いた。
そうだ、あの飴屋で兄さんと買い食いをしたことがあったんだっけ。
突然そのことを思い出して、晨風は都城に入ってからぼんやりと感じていた違和感の原因に気づく。
最初は懐かしいと思ったが、あまりにも以前の都城と変わらないのだ。普通、復興したと言ってももちろん全員が生きているわけでもないし、戻ってくるひとばかりでもないだろう。それなのに、あまりにも自分の記憶どおりだ。
子供のころから住んでいたところとはいえ、もう十年近くも前のことだから、記憶は曖昧だし、もしかしたら記憶の方が現実に合わせて変わっているのかもしれないが。
新都客舎と扁額が出ている建物の前で立ち止まる。旧都になっても新都なのか。見覚えのあるその客舎の門をくぐると、虎虎がふいに言った。
「なんだ、先に来てたんだ」
「え?」
その声を聞いて、虎虎の視線の先に目をやる。客舎の一階では食事を提供していて、その中でもひときわ目を惹く背の高い男が酒を飲んでいた。彼はゆっくりと顔を上げて、晨風を見る。息をのむほどのなまめかしい笑顔。
「星兄さん……」
「十郎、帰ってくるの待ってたんだよ!」
虎虎が駆け寄るが、その男は答えない。晨風もまた、次の言葉が出てこなかった。
ゆっくりと彼は手を伸ばして、晨風を手招きした。吸い寄せられるように、彼の隣に腰かける。
そのまま、するりと長い手が伸ばされて、肩を抱き寄せられた。
かつてそんなふうに、お互いに触れあったこともあったけれど、もう二度とないと思っていたので、どうしていいのかわからない。
「ひさしぶり、小晨」
心臓まで絡め取られそうな甘い声だった。
「十郎、どうして先に行ったの?」
晨風の隣に座った虎虎が、ふたりの間に割って入りたそうに身を乗り出して、王星宇に問いかける。その聞き慣れた高い声に少し安心して、晨風は我に返って息をつく。やっと、呼吸することを思い出した。
「虎虎、これは十郎じゃないよ。私の……十郎の主人の、星兄さんだ」
もう友人、ではないだろう。どう呼んでいいのか迷いながら、晨風が言うと、虎虎は鼻を星宇に今にも押しつけそうにしながら首をかしげた。確かに、十郎は星宇によく似ているので、虎虎が間違えてもおかしくはない。自分も最初親族なのではないかと疑った。もちろん十郎は少年で、星宇は自分より年上だから、もう三十歳半ばになっているはずなので、明らかに別人なのだが。
「へんなの。十郎の匂いだけどなあ」
虎虎の言葉に、星宇はいぶかしげな顔をしている。それはそうだ。人間は普通人間を匂いで判断しない。あとで言っておかなければ。
「星兄さん、ひさしぶりですね」
物言いたげな星宇の表情に、晨風は慌てて言い添えた。
「この子は李天虎。わけあって孤児を拾って育てているんですが、田舎暮らしが長いので、ちょっと色々知らなくて」
「田舎に暮らしているんだな? 苦労しているだろう?」
冷たいてのひらにするりと手を取られて、晨風は頬が熱くなるのを感じる。
確かに水汲みや料理や掃除など、家事は全部自分でやっていて、昔のように疵のない手とはいかない。好んでそんな生活をしているので、特に苦労とは思っていないのだけれど。いや別に、そのことが恥ずかしいわけではないのに。
「大丈夫ですよ。もう十年近いですから」
「かわいそうな小晨。どうだ、一緒にここに住まないか。私の屋敷も空いている。私と一緒に都城再興に尽くしてほしい」
「何を、おっしゃるんです?」
「小晨。実は、承王子は生きている」
声を落として、星宇がささやく。
「はい?」
思わず大きな声が出そうになって、晨風は慌てて声を抑えた。承王子は前皇帝、英帝の三男だ。
星の巡りが悪く、不吉な運命を持ったと予言されていた王子。生来の病があって、生まれてすぐ部下の子とされ、生まれていないことになっていたが、宮中にいた人間はみなその存在を知っていた。
「私はあの日、英帝から承王子を連れて逃げるよう、秘密の任を受けたのだ」
「お元気なんですか?」
「もちろんだ。今はおひとりで宮城で暮らされている」
靄がかかったような、不安な想いが生まれる。
「つまり、……あなたは光帝から承王子に玉座を取り戻すおつもりなんですか?」
「相変わらず察しがいいな」
妖艶に微笑む、かつて兄と慕った男の顔を見つめる。このひとは、相変わらず野心家なのだ。昔から全然変わっていない。男兄弟の多い家に育った末っ子だから、常に何か手柄を立てたがる。大きな話を好むのだ。
英帝の最後の志なら、それを遂げることの重要さもわからないではない。それでも、もう一度戦いをしようなんて。
「私はてっきり、あなたが光帝派なのだと思っていましたよ。私を、あんな目に遭わせたんですから」
「違う。それは父上だけだ。小晨、私がおまえを遠くにやったのは、おまえを巻き込みたくなかったからだ」
「よく言いますね」
「本当だ。おまえのことは誰よりも心配している」
晨風は大げさにため息をついた。
「兄さん、私はもうこりごりなんです。もう一度誰かを信じて、誰かと何かをやるなんて。特にあなたとは。あなたの話は誰にも言いませんから、あなたはご自分のお屋敷に帰ってください」
握られた手を翻して、晨風は席を立つ。
「虎虎、おいで」
不機嫌に突然立ち上がった晨風を、驚いたように虎虎は見る。山の麓で暮らすようになってから、ほとんど何もないおだやかな生活だったから、苛立っている自分が珍しいのだろう。慌てて荷物を抱えて彼も立ち上がった。
「また来るよ、小晨」
乙女たちなら気を失いそうな、甘い笑顔の星宇を視界の隅に押しやりながら、晨風は立ち去った。




