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1章の1 李晨風は子虎を拾う

 東の大国、光帝の治世の時代。

 英帝えいていから光帝こうていとなる戦いの際に焼け落ちた都城を離れ、李晨風リ・チェンフォンがひっそりと山の麓の草堂に暮らしはじめて五年。

 かつては誰かに面倒をみられていることが多かった彼も、すっかりひとりの暮らしが身についた。

 村に下りるのは、いくらかの金銭を受け取るために書堂に行ったり、その帰りに何かを買いにいったりといった限られた機会だけだが、そのわずかな人間に会う機会も、近頃の彼にはおっくうだ。


「今日もありがとう」


 そう言って晨風から答案を受け取るのは、書院のサン先生だ。


「いえいえ、こちらこそ助かります」


 答案の束の代わりにいくばくかの銭を受け取って頭を下げる。

 桑先生は元々官職についていた善良そうな老人で、この小さな田舎の村で子供を集めて書堂をやっている。主に、科挙を受験する子供の指導だ。

 地方での勤務が多かったようで、晨風と一緒に働く機会はなかった。それでも同じく科挙に受かった者同士、なんとなく仲間意識があるのか、帰る場所をなくしてこの村にたどりついた晨風を、何かと気にかけてくれている。

 ずっと官職にいて、それ以外の仕事を何も知らなかった自分に、課題の採点の仕事を回してくれたのも彼だ。ぱらぱらと手にした答案に目をやって、老人は笑顔を見せた。


「李くん。前も言ったが、きみもうちで講義を持ってみないかね」


 何度目かの誘いに、晨風は曖昧に微笑む。人間に会う仕事はしたくない。ただ、静かに生きていきたいのだ。

 五年前、都城で戦いがあって君主が代わり、晨風たちの国は隣国の王だった光王を皇帝と仰ぐようになった。

 都城は焼け落ち、首都は別の場所に変わったものの、多くの民にとっては上に立つ者が変わったからといって、大きな変化はない。そもそも、現在の光皇帝は、元々は英皇帝から隣国を分封ぶんぽうされていた、彼の弟なのだ。

 多くの官職についていた者はそのままの地位に残り、新しい主を受け入れたが、晨風はそれができなかった。

 古い皇帝は天意を失い、新たな皇帝こそが本来の皇帝だったのだ。

 皆はそう言っていたが、英帝はとても立派で、彼には理解できなかった。それに、戦いのときに晨風は都城にいることができず、自分はそこに留まって最後まで戦うべきだったという後悔は、いつも残っていた。

 それはやがて、無力感に変わっていった。自分は何もしなかった。そんな自分などが、子供に教えることなど何もないのだ。


「先生、私にはそんな大それたことは」


 老人はそんな彼の言葉を遮るように、手を左右に振った。


「いつでも、その気になったら言いなさい。ああ、嵐が来そうだな。気をつけて帰るように」


   *


 ざわざわと木々が鳴る。確かに嵐になりそうだ。

 村はずれの橋を渡った。川面に、色白で神経質そうな細身の男の姿が映る。自分だ。

 かつては幼なじみのワン家の兄弟たちと並び、都城の三大美男子と呼ばれ、その中でももっとも柔和だと言われていた顔立ちが、だいぶ不機嫌そうになったことには自覚がある。別に、誰に見せる顔でもないのでどうでもよいが。

 橋を越えるともう山に入る。ゆるやかな坂の竹林を歩き始めると、強い血の匂いが漂ってきた。

 晨風は眉をひそめる。山には様々な獣が住んでいて、安全なところではない。

 彼の住むあたりは特に、人間と動物の生活の境目で、人間が死ぬことも、動物が死ぬこともあった。人間が狩猟をすることもあったし、逆に虎に食われたりすることもある。

 彼自身がここに住んでいられるのも、実のところ自分がいつ死んでもよいという気持ちが強かったからだろう。何もしていないのだから、生きている価値もない。そういう気持ちだった。

 それでも雨に濡れるのは面倒に感じて、晨風は足を早める。

 そのときだった。

 みゃお、みゃお、みゃお。

 猫の子のような鳴き声がして、晨風は振り返った。

 その声は、血の匂いの方からしている。

 幼い鳴き声からして、何か、獣の子供だろう。自然のものは、自然のままにしておくべきだ。

 そう思ったが、その声はどんどん大きくなって、風のざわめきにも負けず、必死に声を張り上げているのが伝わってくる。

 それが哀れに思えて、晨風は声の元を探る。

 やがて竹の根元に、小さな、猫のような獣が血にまみれながら鳴いているのを見つけた。

 山猫? いや、それよりも丸く寸胴だ。子虎か。

 まだ目も開いていないようなその獣は、よろよろと歩きながら全力で鳴き声を上げている。

 辺り一面が血の海だった。この子虎から出ている血にしては、量が多い。親か兄弟が殺されたか、傷つけられて囚われたのだろう。

 虎は人間よりも強いが、虎の毛皮に魅力を感じる人間は多い。さまざまな罠を張り巡らせて、特に子供を捕まえようとしているのだ。

 晨風が手を伸ばすと、子虎はしっかりと視線が定まらないまま、それでも威嚇するような声を出す。


「おまえを傷つけたりしないよ。怪我を治させてくれ」


 屈み込んで、晨風は小さな生き物にささやいた。

 子虎はそれでもうなり声を上げていたが、やがて力尽きたのか、ことりと倒れた。意識を失ったのだろう。

 野生の生き物を勝手に連れ帰るのも気が引けるが、ここに置き去りにするわけにはいかない。血の匂いに誘われて他の獣がやってくれば、こんなに幼い生き物はひとたまりもないだろう。

 手と衣が血で汚れるのも気にせず、晨風はその獣を抱き上げる。風が、彼の衣を煽った。

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