地上・02.煤けた朝、同じ言葉と同じ日
朝。鈍い鐘の音が街の上空を滑っていく。
空は今日も灰色。赤い月はうっすらと残り、まだ空に居座っている。
リリィは自室の窓を開けると、深く一度だけ息を吸い込んだ。
この街の朝は煤けている。どこかの煙突から上がる煙が空に溶け、色のない風が頬を撫でていく。
「行ってきます」
誰に向けたでもない言葉を残して、リリィは扉を開けた。
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石畳の道を歩く。通りの角を曲がるたびに、見知った顔が現れる。
最初に見えたのは、パン屋のミーナだった。
今日も変わらず、棚の上にはこんがり焼けたパンが並び、店先には甘い匂いが漂っていた。
「おはよう、リリィちゃん。今日も良い子ね。焼きたて、どう?」
「ありがとう、ミーナさん。いつものください」
ミーナはにこりと微笑み、毎朝と同じカゴパンを差し出す。
「まったく、この街は今日も平和だねぇ。ねえ、そう思わない?」
「うん、平和だと思うよ」
ミーナの笑顔も、パンの温度さえも、昨日と寸分違わぬままだった。
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次に向かうのは花屋のユークの店。
店の前に並ぶ花たちは、鮮やかさを取り戻そうとするかのように、灰の空の下でけなげに咲いていた。
「リリィ、今日も来てくれてうれしいよ。ほら、この花、昨日より少し開いたんだ」
ユークは白い花を摘んで手渡す。
「ありがとう。綺麗……本当に」
リリィはそう言いながらも、ふと何かが引っかかる。
「でも……昨日も、同じことを言ってなかった?」
ユークは首をかしげて笑う。
「そうだったかな? 気のせいじゃないかな」
気のせいだろうか。
同じ言葉、同じ笑い方、同じ風の匂い——
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そのまま歩くと、街の見張り番、ガロスの姿があった。
「市民、通行を確認。記録済み」
「ご苦労様、ガロスさん」
「リリィ、異常はない。今日も平和だ」
いつもの定位置、いつもの姿勢、いつもの警棒を腰に。
「……なあ、リリィ。昨日、俺は何か言わなかったか?」
「え?」
「いや、何でもない。今、頭の奥で何かがギシ……って鳴った気がしてな」
リリィはぎこちなく笑った。冗談にしては、少しだけ深刻な顔だった。
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昼下がり、リリィはカフェに立ち寄った。
店内にはほんのり甘い香りと、揺らぐ陽だまり。カウンターにはロゼがいた。
「リリィちゃん、こんにちは。ミルクティーでいい?」
「うん、お願い」
ロゼは笑顔で紅茶を淹れながら言った。
「なんだか今日は、昨日に似てる気がするの。不思議ね」
「そうかな……私は、昨日をもう思い出せないよ」
「それも、案外素敵かもしれないわね」
紅茶の香りが、言葉の奥をぼやかしていく。
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その夜。部屋に戻ったリリィは、朝と同じように窓を開けた。
空はまた灰色。月は赤く、ただ静かにこちらを見下ろしている。
「今日も、いい日だった……のかな」
壁の時計の針は、昨日見たときと同じ時間を指している。
リリィは目を閉じて、ほんの少しだけ微笑んだ。