目覚めの鐘(The Awakening Bell)
プロローグ:目覚めの鐘(The Awakening Bell)
──この街には、朝がない。
空には紅く染まった月が浮かび、
地上を覆うのは、途切れた記憶のような灰の光。
時を失った世界に、名もなき音だけが残っている。
「……カン……カン……」
鐘の音が、霧に溶けていく。
それは誰かが鳴らしたものか。
あるいは、止まりかけた世界が、最後に搾り出した呼吸なのか。
答える者は、いない。
歯車の回転音。
蒸気の吹き出す音。
旧式の機械たちが軋みを上げ、
そして、誰のものとも知れない靴音が、石畳を静かに踏みしめる。
少女が歩いていた。
薄く煤けたマントを羽織り、片手で胸元を押さえながら、灯りのない通路を進む。
その胸に抱えるのは、壊れかけの懐中時計。
――そして、忘れ去られた問い。
「……ここ、だったはず……」
目の前に立ち塞がるのは、錆びついた鉄扉。
けれど、その向こうに何かがあると、彼女は知っていた。
記憶ではない。だが、それは確かに“刻まれていた”。
指が扉に触れた瞬間——
「カン……カン……カン……」
再び、鐘が鳴る。
今度は、街全体の奥深くへと響き渡るように。
少女の瞳に、かすかな戸惑いが浮かんだ。
けれどすぐに、その視線はまっすぐに前を見据えた。
* * *
「……今の、聞こえたか?」
「……鐘だな。けど、地上からだと? 動いてるはずない……」
「扉が開いたんだ。長い間、閉じてた“そこ”が」
「誰かが入った? それとも……誰かが出てきたのか?」
「……どちらでも同じさ。変化の兆しってやつだ」
「だが本当に……あいつらが言ってた通りなら──」
「信じたいだけだよ。夢でも、記憶でも構わない。
誰かがまだ“そこ”を覚えてるなら、それだけで、意味がある」
* * *
遠く、灰の帳に覆われた場所。
止まった針の下、彼は独りで座していた。
機械仕掛けの椅子に沈み、背筋を曲げたまま、まるで眠るように動かない。
壁の歯車たちはもう久しく動いていない。
けれど——
カン……カン……。
沈黙の空間に、鐘の音が響いた。
それは空気ではなく、世界そのものを震わせたような響きだった。
「……また、誰かが目覚めたのか。ふむ……」
掠れた声で呟いたその男は、机の上の懐中時計に視線を落とす。
長く沈黙を守っていたその時計の針が、かすかに震えていた。
「君ではないと分かっている。……それでも」
男の手には、小さなペンダントが握られていた。
かつて誰かを象っていたその輪郭は、もう形を保てないほどに擦り切れている。
「それでも……また夢を見たのだよ。灰の下で、生きた声を」
語りかけるような独白。
その声に応えるように、机の奥で一つの歯車が微かに揺れた。
「時はまだ、止まりきってなどいない。
誰かが選び、誰かが拒み、誰かが今も……歩いている」
影の深い瞳が、外の世界を見つめる。
そこには希望も絶望もなかった。ただ、確かに“何か”が始まりつつある予感だけがあった。
「ならば私は、また装置を動かそう。もう一度、選び直すために」
――そして、時は再び、ゆっくりと動き出した。