第一幕 泡沫の追憶 ⑤
〈ライヤ視点〉
走馬灯でも見ているのか。
そうした記憶を思い返すライヤに……
怨敵である大妖魔が、不服そうに唇を尖らせる。
「なんだいなんだい、ライヤくうん。こおんなにいい女を目の前にしてえ、他所ごとを考えるなんてえ、野暮にも程があるってもんだよお。そんな悪い子にはあ……んっ」
「……っ!? ……っ!」
自分と妖魔。
たった二人の閉ざされた世界で、唇に違和感。口膣に異物感。朦朧としていたライヤの意識が覚醒する。
(なん……だ、口の中を、貪られて……っ!?)
まず喰われる、と直感した。
しかし口内を蹂躙する舌の動きから、
それが接吻なのだと理解させられる。
(ふざ……けるなっ! この、色情淫魔めっ!)
なけなしの力を振り絞り、ライヤは口内の異物を噛み千切ろうとした。けれど崩壊寸前とはいえ、伝説の大妖魔の肉体に抗うには、瀕死の肉体の咬合力は無力に過ぎた。それどころか儚い抵抗はむしろ鬼女を悦ばせ、より熱烈に、執拗に、自分という存在を相手に刻みつけるように、尊厳の蹂躙は止まらない。
ドロドロと、体液とともに。
熱く、重く、濃い、妖気が流し込まれる。
それが口内を舐る舌の動きと相まって、なんらかの『呪』を成しているのだが……すでに抵抗する気力も失せたライヤに、詳細を判ずることは適わなかった。
「……ぷはあ」
じきに、不快な妖術を刻み終えたのか。
いやに整った鬼女の相貌が離れていく。
「……ペッ」
即座に唾棄した退魔武士に、伝説の大妖魔は若干、傷ついた表情を浮かべた。
「……クッ、殺、す! 殺して、やるっ!」
「いいねえ、いいねえ、その意気さあ。是非とも私様を、殺してくれよお。何度も何回でも飽きるまでえ、たとえ死がふたりを分かとうとも永遠にい、生まれ変わって来世でもお、仲睦まじくう、いつまでも愉快に楽しく殺し合おうじゃないかあ! おねーさんとの、約束だよおっ!」
「……知る、かっ。その、ような、戯言っ」
「……んひい」
最期に満足そうな笑みを浮かべて。
伝説の鬼女は一息のうちに、
その姿を塵へと転ずる。
術者の消滅によって、
空間を断絶していた遮幕術も崩壊。
暗黒の天蓋が罅割れて、亀裂は全体に波及。
パリン……と、いっそ軽やかな音とともに。
闇が晴れて、ライヤを陽の光が包み込んだ。
「ライヤああああああああ!」
「……殿」
陽を取り戻した世界に朝日が昇るが、ライヤの視界はその姿を朧げに捉えるのみ。それでも決して、聞き違えることなどない声の方向に首を向ければ、残る隻腕を握り締める、温かなぬくもりに包まれた。
「馬鹿、ライヤ! だから言っただろう、無茶すんなって! おい治癒士のおっちゃん、早くコイツを治してやってくれ! この猪馬鹿には今度こそ、たっぷりと言い聞かせて反省させてやんなきゃいけないんだ! だから早く! お願いだからよお!」
「……オワリ殿」
「……ッ!」
「もう……手遅れでございます。なれば今際の言葉、確とお聞き届けなされるのが、主君としての務めかと」
「……クソッ、クソクソクソクソッ、クソッたれがあ……っ!」
身体の感覚が曖昧だ。おそらく大岩から引き抜かれ、地面に横たえられているのだろう。ふわふわと宙に浮いているかのような、じつに奇妙な心地である。周囲がやけに騒がしい。あたたかい。
「おいライヤ、勝ち逃げは許さへんぞ!」
「そうですよライヤ氏、まだ殿の右腕を決める論争に、決着がついておりませぬ。このままでは小生が勝ち逃げとなるがよろしいか!?」
「ううう……ライヤ様あ……うっ」
「……皆の者、弁えよ。殿の御前であるぞ」
騒々しい仲間たちの音が引いて、再び、ライヤの耳朶が主君の声を捉える。
「……おい、ライヤ。聴こえてるか? 聴こえてるなら返事くらいしやがれ」
「……ぎょ、御意」
絞り出した返答は、
自分でも呆れるほどに弱々しかった。
息を呑む気配がしたが、間を置かず、
主君の問いが放たれる。
「ライヤよお。お前、何か欲しいものはないか? やって欲しいことでもいい。なんでもいい、なんでもいいから……何かひとつくらいはよお、お前に、お前の主人らしいことをさせてくれよおっ」
ああ、なんと勿体無い。
あまりにも。あまりにも。
この身に余る御言葉だ。
(殿……某はすでに、殿から多くのものを、頂戴しております)
これ以上を望むのは贅沢だ。
ライヤはすでに十分過ぎる『生』を、
主君から与えられている。
でも――それでも。
もし本当に、
許されるのであれば……
「……殿」
「っ!? なんだ、ライヤ! なんでも言え! 絶対に叶えてやる! もう二度とない、とっておきの出血大サービスだぞ!」
「……それがしの、ねがいを、ききとどけて、いただける、なら――」
「おうおう、なんだ? 何が望みだ!?」
「――それがしを、ら、らいせでも、殿に、つかえさして、いただきたく候っ!」
「……っ!」
もはや今生に後悔はない。
だが未練はある。
それは主君の偉業を最後まで、
臣下として支えられないこと。
それだけがライヤの頬を伝う、
涙の理由であった。
否、ライヤだけではない。
ぽたり、ぽたりと、慈雨の如く。
顔に降り注ぐ、温もりと言葉があった。
「……っ、ホント、ホントのホントに、マジで、しょーがねーなあ! やっぱりお前、俺のこと好き過ぎるだろ!?」
「……いまさら、に、ござい、ますれば」
「ったくよお、いつもならソッコーでお断りだけど、しゃーなしだ、男に二言はねえ! いいか、ライヤ。よく聞けよ!」
当然だ。主人の玉言をこのライヤが、一言一句、聴き漏らすものか。
「ライヅ・ライヤ。今生での不始末は、来世でキチッと償やがれ。んでもって今度こそ途中でリタイアせずに、最期まで武士として俺に仕え、たくさんの奥さんとチビたちに囲まれて大往生する予定の俺を見送りやがれ。いいな? 約束だぞ? 次はぜってーに、俺より先にくたばるとか許さねえからな!」
「……御意」
ああ、本当に――
(――拙者は、最高の主人に恵まれた、果報者でござる……っ!)
そしてライヤの意識は、潰えた。
最期に自分は、笑えていただろうか。
きっと笑っていただろう。
間違いない。
そんな、満足感を抱いて…………
…………………………………
……………………
…………
……
⚫︎
「……このクソガキがあ!」
次にライヤの意識が浮上した時、そこは見知らぬ部屋で、見知らぬ人間が、見知らぬ子どもたちに向かって、暴力を振るっている場面であった。
(……これは一体、どういう状況だ?)
全身が痛い。身じろぎだけで激痛が走る。
おそらく骨が折れ、内臓も痛めている。
(というかここは何処だ? 自分は誰だ? 拙者は……ライヅ・ライヤ……ヒノモトの、サムライ……だが、只人? 孤児? 奴隷? な、なんだ、この記憶は……っ!?)
ダメだ、思考が定まらない。
記憶が混濁している。
それでもなお、揺るがないもの。
ライヤという人間の魂に刻み込まれた、
決して忘れることの許されない主人の記憶。
その言葉。約束。誓い。果たすべき忠義。
――いいか、ライヤ。子どもは宝だ。
――だからどんな理由があろうとも、チビに手をあげるクソ野郎は問答無用でぶっ飛ばせ!
息を吸う。氣を練る。
足に力を込める。立ち上がる。
転がっていた棍棒を手に取る。構える。
「……すうううう」
最後に深く、息吹を吐いて。
ライヤは、己の成すべきことを成した。
「チェストおオオオオオッ!」
【作者の呟き】
お待たせしました。思っていた以上に前世語りが長くなってしまいましたが、次話からやっと、時系列が冒頭から進みます。