第一幕 泡沫の追憶 ④
〈ライヤ視点〉
「――ああ、楽しい」
星々を飲み込んだ夜空の如き、漆黒の天蓋。
周囲を包む暗闇は深く、冷たく、悍ましく。
常人であればただそこにいるだけで発狂を免れないであろう、濃密な妖気で満たされた、妖魔たちの用いる遮幕結界の内部に、ふたつの人影があった。
「楽しい、愉しい、たのしい、ほんっとうにい、夢のような時間だった……ねえ、おサムライさん?」
ゆらゆらと揺れる鬼火に照らされる一方は、絶世と評して差し支えのない、白髪の美女だ。
ただしその額からは天に伸びる二本の角が生えており、肌は闇色で、血のように濡れた唇からは、鋭い鬼牙が覗いていた。
背丈は軽く七尺を超え、本来は豪華絢爛であっただろう漆地に金糸をあつらえた着物は、見るも無惨に切り裂かれたうえ、点々とおどろおどろしい紅に染められていた。
それでも、女は笑っていた。
ヒノモトに名を馳せる、伝説の鬼女は嗤っていた。
嬉しそうに。楽しそうに。愛おしそうに。
眼前の男を見下ろしていた。
「……」
「おやまあ、黙りとはつれないねえ。さっきまであんなに激しく、熱烈に、殺し合っていた仲じゃないかあ」
「……だま、れ。妖魔、風情が」
「あはっ。やっぱりまだ生きてたあ」
血反吐を漏らしながら答えた男に、
鬼女は一層、笑みを深める。
「……ごふっ」
とはいえ男の声色に覇気はなく、
その惨状は、まさに風前の灯。
身に纏っていた武具は軒並み壊され、砕かれ、剥がれ落ちて、露出した肌着は血で赤黒く染まっている。片足は歪に曲がり、片腕もすでに存在せず、本来であれば直立など不可能な身体を、胴体を貫く巨大な三又矛が、背後の大岩に縫い留めている状態だ。
「……殺すッ」
ヒュー、ヒューと、喘鳴する瀕死の若武者。
しかしその瞳だけは炯々と殺意を湛え、
眼前の怨敵を睨みつけている。
ブルリと、伝説の鬼女が震えた。
「……ああ、いい。やっぱりいいねえ、最高だよお、おサムライさん。どうしてもっと早くに、私様のもとに、現れてくれなかったんだあい? そうすればもっと、もっと、もおおおおっとたくさん、殺し合えたかもしれないのにねえ? 千年近くも女を待たせるだなんてえ、わるいおサムライさんだよお、キミはあ」
およそ千年に渡り、ヒノモトに悪名を轟かせてきた伝説級の大妖魔『月蝕御前』の異名を持つ女夜叉の右手が、対魔武士の頬に触れる。
「ねえ、おサムライさん……お名前はあ?」
「……」
「……ふふ、嫌われちゃったねえ。でも、後生だよお、おサムライさん。自分を討ち取った相手の名前くらいは、知って逝きたいじゃないかあ」
艶かしくそのように語る鬼女の身体は、はたして、目を凝らさずともわかるほどに、ボロボロと端から崩れ落ちていた。
妖魔や精霊といった、肉体を妖気や霊気で構築している存在は、その『核』を破壊されれば、存在を維持できなくなる。大岩に磔となった対魔武士が、命と引き換えに、鬼女の妖核を砕いた成果である。
「ねえねえ、おサムライさん。お願いだよお」
「……ライヅ、ライヤ」
「ん? んんん? ライヅ、ライヤ。それが、おサムライさんの名前かあい?」
「……如何に、も。貴様を、冥土、に、送る、刃の、名だ」
「ライヤ……ライヅ・ライヤ……うん、うん、覚えたよお。これで大丈夫、もう絶対にい、忘れないからあ」
「……」
紅玉のような真っ赤な瞳を、瀕死の若武者に固定したまま、ライヤ、ライヤと、口の中でその名を転がす女夜叉。
まるで極上の甘味を味わうかのように、その艶かしくも禍々しい蛇舌が、女の唇を這った。
「……それにしてもお、ライヤくうんは本当にい、おサムライさんの鏡だねえ。死の間際でもお、自分を刃に例えるなんてえ、あくまでその武功を、自分じゃなくてえ、ご主人さまに捧げたいんだねえ。んふふ、めんこいなあ〜っ!」
「……」
「あー、でもでもお、そんな健気なライヤくうんを、こおーんなふうに使い潰しちゃうだなんてえ、ひどいお人だねえ、きみのご主人さまはあ」
「ふざっ、けるなア!」
身体を縫い止める三又矛など忘れて、
血を吐きながら、ライヤは吠えた。
自らの主人を愚弄されて、
許せる家臣などいはしない。
ライヤの瞳に生気が宿ると、ようやく意中の相手の気を引けた大妖魔は、クスクスと悪戯童女めいて嗤う。
「あ、怒らせちゃったあ? ごめんねごめんね、ライヤくうん。謝るから、そんなに怒らないでよお。だから、さ。落ち着いてえ。ね? そんなにはしゃいじゃ、だあーめだよう。ただでさえキミにい、残された時間は少ないんだからさあ」
「……っ」
「んふふふふ、それにしてもライヤくうんは、本当にい、そのご主人さまのことがだあい好きなんだねえ。妬けちゃうなあ」
当然だ。
たとえ死を目前にしたとて、
ライヤの忠義には、一点の曇りもない。
このような醜態を晒しているのは、
ひとえに自らの不甲斐なさ故。
主人の期待に応えられなかった己の無力を、
唯々悔いるばかりである。
(果たして殿は、このような臣下を、許してくださるのだろうか……?)
いよいよ熱を帯び始めた、人と妖の、世紀の合戦。
その初動を制すべく、ヒノモトに名だたる大妖魔が名を連ねた『妖魔連合』に対して、各々の武家から精鋭が選抜された『滅魔隊』が、先制攻撃を仕掛けようと目論んでいた。
戦の熱に当てられて、開戦の刻を今か今かと待ち侘びる、選りすぐりの退魔武士たち。
彼らを支援する地方大名などを筆頭に、周囲が異様な盛り上がりをみせるなかで、ただひとり、常の弱気な態度を崩さぬライヤの主人だけが「ふざっけんな!」「こんなの命が幾つあっても足りんわボケーっ!」などと嘯いて、前線から遠く離れた後方の、滅魔隊の本部がある帝都に居座っていた。
そこを開戦直後、妖魔連合に狙われた。
滅魔隊の上層部に裏切り者でもいたのか、魔に穢された紅月の夜、転移術を用いた妖魔たちの奇襲は、あと一歩でヒノモトの希望に取り返しのつかない陰を落とすところであった。それを、またしても無明人の計略が上回った。もはや未来視とさえいえる先見によって、帝都に待機していたライヤたちが、滅魔隊本部の窮地に駆けつけたのだ。
そして始まる戦闘。
こちらの備えは不十分で、守るべきものは多い。ゆえにライヤが選んだのは、ライヅ家に代々伝わる首狩り戦法。少数精鋭で決死隊を成し、敵首魁を討ち取ることで、形勢の逆転を目論んだのだ。
「おい馬鹿やめろって、今度こそ本当に死んじまうぞ!? いいか、何度でも言うけどなあ、俺は富や名声なんかよりも、お前たちの方がよっぽど大事なんだよ! だからいい加減、死にたがりはよせ! ここは退くぞ!」
全く、殿は非道い御人だと、
ライヤは一人ごちる。
そのような御言葉を頂戴して、奮い立たぬ臣下はいない。
何よりも、いかに賢しく振る舞ったところで、ライヅのサムライは所詮、功名餓鬼。首級を獲って、手柄を挙げて、主人に認められたくて、褒められたくて、仕様がないのだ。
「殿、確とご照覧あれ! 貴方様の刃が、見事敵の首級を、討ち取ってご覧にいれますれば!」
「おい馬鹿、待て! 待て待て待てって! 馬鹿ライヤああああああっ!」
そうして主人の静止を振り切り、ライヤは決死隊を率いて敵本陣へと駈けた。聡明なる主人であれば、本心では理解しているはず。すでに敵の包囲網は完成しており、逃げ場などはどこにもない。それでもなお、家臣の身を案じる主君に甘えるほど、ライヅの武士は腑抜けではなかった。
「皆の者、これより我ら、修羅に入る! 殿のお慈悲に応えるため、ライヅの士道、ここに有りけりと証を立てよ! 捨てがまるは、まさに今ぞ!」
「「「「「 応! 応! 応おオオオオオッ! 」」」」」
武士道とは、死ぬことと見つけたり。
自らの死に価値を見出した退魔武士たちの意気は、軒昂にて最高潮。悪鬼すらも凌駕する、鬼気迫る勢いを以ってして、遂にはその刃の先端を、敵の喉元に突きつけた。
「……あはあ。なんだいなんだい、戦場に怖気づいた玉無しどもの中にもお、威勢がいい子たちがいるじゃなあいっ!」
「我、敵の主力を発見せり! チェストおオオオオオオッ!」
そうしてライヤは敵陣にて、
伝説の鬼女と相見えた。
そして仲間たちの屍を超えて、
見事、その妖核を打ち砕いたのだった。
【作者の呟き】
あまりに助走が長いとガンジーさんに殴られるので、ライヤくんの前世語りは次話で区切ります。もうしばしお付き合いをば。