第一幕 泡沫の追憶 ①
〈ライヤ視点〉
「爺様。僕は不出来な人間です」
かつて、世界の片隅にある島国、ヒノモトに。
『ライヅ』と呼ばれる武家が存在した。
古くは戦国時代に武名を轟かせた『シマヅ』の系譜に連なり、それから時代を経るごとに他家から血を組み込み、技を取り込み、武家としてのあり方を変化させつつも、その精神だけは変わらず揺るがず錆びつくことなく、今もなお御国に蔓延る妖魔から民草を守護する退魔武士の名家として、その武威をヒノモト全土に知らしめている。
その誉高き名門武家において、百年に一人の神童、生まれながらの剣鬼、ライヅ家の麒麟児と、幼少より称賛と畏怖の言葉に事欠かない、天才剣士がいた。
名を、ライヅ・ライヤという。
これは彼と、彼の師匠でもある老爺との、
昔日の会話である。
「……」
「爺様。僕には、人の心がわからないのです」
ライヅの総本家、武家屋敷の一角にて。
白眉に覆われた目を伏せて黙する老人に、
説明が足りていないと判じたのだろうか、
齢十にも満たない、幼いライヤが続ける。
曰く自分は、人の心がわからない。他人の気持ちを推し量ることができないのだ、と。
「何故に他の人たちは、あんなにも弱く、脆く、鈍いのでしょうか……?」
そして何故、ああも自分のことを、恐れるのか。怖れるのか。畏れるのか。
「……僕には、あの人たちの気持ちがわかりません」
ライヤがライヅ流奥義の一つを初見で真似たとき、ある者はその才を讃え、ある者は自らの非才を嘆いた。
ライヤが齢五つで初めて魔物を討伐したとき、ある者はその武威に感涙し、ある者はその剣才に恐怖した。
ライヤが請われて真実を与えたとき、ある者は残酷な事実に激怒し、ある者は揺るぎない真理に滂沱した。
じきに、ライヤも察する。どうやら人々は、自分の他愛のない発言や、一挙一動に、大きく心を揺さぶられるらしい。しかしライヤからしてみればそれらは特別でもなんでもない、ただの『当たり前』のことなので、いちいちそれらに左右される人たちの心が、理解できない。共感できない。ゆえに彼らを、自分と同じ土台に立つ人間として、認識できない。壁を感じてしまう。
それが幼い少年の、僅かに自覚している己の人間性……『孤独』を、深めていた。
「……」
そうしたライヤの独白を。
老人は一言も漏らさず聞き届けてから――
「――チェストオオオオオオッ!」
カッと白眉に埋もれていた目を見開くと、咆哮。ライヅ家に代々伝わる雄叫びとともに、傍に置いていた刀を手にして抜刀。一族秘伝の呼気を用いた身体強化術まで駆使して、銀光を一閃。神速の居合斬りを、対峙する少年に見舞った。
「……」
1秒すら分割した一瞬のなかで……
老人の呼吸、氣の流れから、それを寸前で察知していたライヤは、小さく一呼吸。そのたったひとつの呼吸によって、師である老人よりも多くの『氣』を練り上げ、淀みのない流水の如く滑らかに、身体強化術を発動。
音が消え、色が抜け落ち、目に映る全てが極限まで鈍化した世界で、ライヤは目前に迫っていた銀閃を難なく回避。次いで間合いを詰め、居合抜きによって肩膝立ちとなった老人に肉薄。正確無比な一撃を顎に見舞うことで脳を揺さぶり、そのまま肩を抑えて腕を捻り上げることで、肉体を制圧。結果として師である老人は顔面を畳に叩きつけられ、刀を手放したうえ、生殺与奪を弟子である少年に握られてしまうのであった。
「……何する爺様。気でも狂ったか?」
それら、武に通じる者なら誰であれ『絶技』と評する攻防をこなしつつ、息ひとつ切らさないライヤは、ただただ不思議そうに首を傾げる。
ただ普通に、当たり前のことを、適切に実行しただけ。
寸前の発言を証明する少年の態度に、鼻と口端から血を垂れ流した老人は、ニイと喜色の笑みを浮かべた。
「……良い、ライヤ。オヌシはそれで良いのだ」
「……?」
「オヌシは、サムライ。そしてサムライの本分とは、主人に捧げた一振りの刀。なれば刀に、切れ味を削ぐ意志など不要。名刀はただ、名刀であればいい。くだらぬ雑事で、感傷で、その才を、刃を、錆び付かせるな」
「……そうか」
ストンと、腑に落ちた。
「僕は、このままでいいのか……」
自分は刀。
変わらず、揺るがず、錆びない、一振りの刃。
自分という存在をそのように定義されて、幼い少年の疑念が消える。
「……そうか、爺様。僕はこのままで、いいのだな」
「良い。オヌシはただライヅのサムライとして主君に仕え、斬るべきものを斬り、守るべきものを守り、死すべきときに死ね」
「ん、承知仕った」
そんな遣り取りが後の数年間、
ライヤの人生の指針となった。
師の教えに従って『ライヅの最高傑作』は己を磨き続け、刃を研ぎ澄まし、情を削ぎ落としていった。
人は彼を、天才として讃えた。
人は彼を、剣聖として崇めた。
人は彼を、剣鬼として畏れた。
数多の妖魔を討ち、多くの民草の命を救い、数えきれないほどの武功を、当たり前のように積み重ねていく少年を、人々は敬い、恐れ、焦がれ、遠のき、憧れて、距離を置いた。
何故なら彼は、自分たちとは『違う』のだから。
誰も彼の横に、並び立てはしないのだから。
彼は孤高で、孤独で、唯一無二だから。
(……つまらないな)
気づけばライヤの周囲には、
人がいなくなっていた。
正確には人間はいるのだが、
心の琴線に触れる者がいなくなっていた。
たとえ他人からどれだけの熱量を込めた感情を、評価を、言葉を贈られようとも、それらは少年に、どのような感情を抱かせることもない。地を這う虫の嘆きを鳥が知る由もないように、凡人たちが向ける数多の感情は、天才の心には届かない。笑顔を貼り付けてただ聞き流す。やり過ごす。そして寝て、起きて、飯を食べて、鍛錬を重ね、妖魔を斬る。そのような作業を淡々と繰り返しているうちに、気づけばライヤは元服の儀も終えて、齢十四の成人となっていた。
二度目の転機は、そんな折に訪れる。
「……ふむ。かの霊峰の麓に、異変の兆しが?」
懇意にしている占術の名家からの情報に、常在戦場を掲げる退魔武家は即座に対応。宣託を受けたその日の晩には調査隊を結成し、そのなかにはつい先日、史上最年少でライヅ家の筆頭戦力『雷刃衆』に名を連ねたばかりの、天才剣士も含まれていた。
「はっ。先んじて遣わせた『影』からの報告によれば、一週間ほど前にかの霊峰を地震が襲った直後から、麓の一部にて不自然な濃霧が発生しているとのこと。また陰陽師の占星術においてもこれが変兆の前触れとなったため、真偽の調査、場合によっては原因の究明、あるいは『解決』をせよと、退魔奉行所からのお達しであります」
「良し、承知した。明日出立する」
「……」
「……ぬ? 如何した? まだ何か報告が?」
「い、いえ、流石はライヅのお侍様……見事な、即断即決だと」
問題となっている霊峰は、大地を流れる霊脈の影響で、稀有な霊草などが採集できる反面、強力な妖魔が発生し易い地でもある。そんな魔境の調査に、武力の象徴とも呼ぶべき雷刃衆を向けるということは、少なくともそれを命じた者たちは、此度の事態にその必要性を見出したということ。
そして『解決』、つまりは『討滅』までを含んだ危険な任務を、まるで気負いなく引き受けた若者の姿に、他家から遣わされた言伝人は深々と頭を垂れた。
(……霊峰の妖魔、か。少しは骨のある相手であれば良いのだが)
そのような言伝人の感服など気にも留めず、この頃には人間関係に倦み、戦闘の高揚にしか愉しみを見出せなくなっていた退魔武士は、まだ見ぬ強敵に、むしろ胸を高鳴らせる。
はたして数日後。
実際に赴いた霊峰にて邂逅したのは……
ライヤの期待を、見事に裏切る人物であった。
⚫︎
「うわああああああああ死ぬ死ぬ死ぬまじでコレなんなのコレえええええええええっ!?」
霊峰の麓に広がる森中に木霊する絶叫。
恥も外聞もなくそれを口にするのは、
見慣れぬ異国の衣服をまとった少年である。
上背こそやや高いが、年齢はライヤと同じ程度であろうか。しかしその面構えに覇気はなく、服の上から観察する身体はどうにも貧弱で、とても戦闘を生業とする人間には見えない。襲いくる熊型の妖魔から必死の形相で逃げ惑う足運び、重心、呼吸の使い方、氣の練り方からも、それは明らかだ。
そのような不可思議な格好をした非戦闘民が、
このような危険な土地に存在している。
もはや怪しさしか存在しない。
すわ、人に化けた妖魔の誘いかと判じたライヤたち調査隊が木陰に潜み、対象の観察を選んだのは至極真っ当な行動であったが、それから数分も経たないうちに、奇妙な格好の少年は、熊型妖魔に追い込まれてしまった。
『グルルルルルル……ッ』
「え、あ、これ詰んだ!? 俺死んじゃう!? いやいや待って、死んだフリ死んだフリ! これから死んだフリしますんで、どうかマジで殺さないでくださいいいい!」
あ、これは死んだな。
ライヤは冷静にそう思った。
(何故に彼奴は、妖魔に対してわざわざ仰向けに寝転がり、腹を見せる? 媚びた犬猫ではあるまいし)
けれど白目を剥いてだらしなく舌を見せる少年の悲壮感は本物で、その股間部にじゅわあああと広がっていく染みからも、これが相手の油断を誘うための演技という線はないだろう。
むしろ熊型妖魔など無様極まる人間の醜態に混乱すらしているようだが、しかしこのままではあと数秒と保たずに、彼が振り上げられた凶悪な熊爪によって引き裂かれることに、疑いはない。
(……まあ、止む無しか)
人命救助もまた、退魔武士の務め。
少なくともあの不審者は、人語を解せるようだ。
ならばひとまず捕り立てて、情報収集に努めるのが吉であろうと、ライヤは抜刀。木陰から飛び出して、今まさに凶爪を振り下ろそうとしていた妖魔に肉薄、気迫を纏いて斬りかかる。
「チェスト!」
ザンッ、と一太刀にて肉も骨も妖気も両断。
一瞬の間を置いて、唐竹割りとなった妖魔が、
断末魔すら漏らせず左右に崩れ落ちる。
鮮血が散り、内臓が溢れて、血臭が辺りに充満した。
「うわっ、うわわわわあばば……」
ぶりぶりぶりぶり……
そしてその一部始終を間近で見せつけられた少年は、脱糞していた。
⚫︎
これが前世において天才剣士と謳われた少年と、
彼が唯一無二と崇める主君との、
出会いであった。
【作者の呟き】
脱糞系主君、新しくないですか?