序幕 とある辺境領地の日常 ③
〈冒険者視点〉
「ニャッコ!?」
「……うにゃあ。やっちまったのにゃあ」
辺境領地の開拓村を背に置いた、
冒険者と魔獣の最前線にて。
疲労を滲ませながらも突出して戦線を維持していた猫人の冒険者が、ホーンウルフの突進を回避してカウンターを見舞った直後に、血を吸って泥濘んだ地面に足を滑らせ、姿勢を崩してしまった。
『グルルルウガアッ!』
「にゃっ!?」
さらにその隙を見逃さずに襲いかかってきた新たな魔狼の一本角が、少女の太ももを抉る。すかさず反撃して魔獣を仕留めたものの、不恰好に膝をついたニャッコの傷口からは、ドクドクと鮮血が溢れている。
おそらく重要な血管をやられた。
いかに頑強な肉体を有する獣人とはいえ、
即座に立て直すことのできない深傷である。
「おい、何やってんだクソ猫お! さっさと立ちやがれ!」
「だ、ダメにゃ、走れにゃいのにゃ!」
魔狼の相手をしつつ、異常に気付いた仲間の鬼人が声を荒げるが、地面に片膝を付くニャッコは首を横に振る。彼女らのリーダーであるノリスの背に、冷たい汗が滲んだ。
「ニャッコ! いいいから這ってでも後ろに下がりな! とにかくその場を離れるんだ!」
「……援護は、長くもたない。早くしてっ!」
「……っ! にゃっ! にゃっ!」
焦る仲間たちの声を受けて、足を負傷した猫人は、傷口を破った衣服で縛り強引に止血。
それから四つん這いとなり、全身を泥と血に塗れさせながらも、必死に這って前線から離れようとするが……しかし遠い。ニャッコが死守していた前線から、安全圏である村の防護柵まではあまりに距離がありすぎた。
そして当然、そんな絶好の獲物を飢えた魔狼たちが逃すはずもなく、血の匂いを嗅ぎつけた狼の牙が、無防備な冒険者に殺到する。
「んなろ、やらせるか――ってオイ!?」
「……な、なに!? こいつら急に、連携を!?」
仲間を助けるため、陣形を崩してまで救援に飛び出そうとした新米冒険者たちを、先ほどまでと違う動きを見せる魔狼の群れが阻む。そうした魔獣の行動に、長い冒険者経験を有するノリスがすぐに勘付いた。
「――クソッ、最悪だ! この群れ、上位個体が居やがる!」
『グルルオオオオオオーーーーンッ!』
ノリスの推測を裏付けるように、群れの奥から、一際大きなホーンウルフが姿を現した。
魔生樹から産み出される魔獣の数が増えるにつれて、発生率が高まるという上位個体。
明らかに周囲の魔狼とは一線を画す巨大魔狼が大地を蹴り、雌叫びをあげて突進。進路上には、無様に大地を這う猫人の姿があった。
「ニャッコ、アンタ狙われてるよ! 早く戻りな!」
「クソ猫ッ!」
「……猫さんっ!」
「にゃ! にゃっ!」
悲鳴をあげるチームの仲間たちは、指揮を得たホーンウルフの猛攻によって、その場から前に出ることができないでいた。他の冒険者チームも魔狼の連携に阻まれ、その場から動けない。
そして血に飢えたボス狼の牙が、孤立した獲物の、命を狩り獲ろうとしてーー
「――ちぇ、ちぇすとおおおおおお!」
それまで戦場の主役だった、魔獣と冒険者。
それらの意識の外側から防護柵を乗り越え、戦場を駆け、上擦った声とともに突撃したのは、手に使い古した鍬を握り締める、只人の青年であった。
「にゃ、ニャーレくんっ!?」
『ガウッ!?』
「ちぇすとお! ちぇすとおおお!」
型はなく。技もなく。力すらなく。
ただ闇雲に、振り回されるだけの農具。
だが予期せぬ闖入者の暴挙によって、
ほんの僅かに、巨大魔狼に迷いが生じた。
『……グルルッ』
突進を止めて獲物から距離をとり、
唸りながら様子を伺っている。
好機だ。
「……っ、今だよ魔術士ども!」
それは時間にして、数秒程度の遅延。
けれどその僅かな時間差によって、
詠唱していた呪文が完成した。
「ぶち込めえええええ!」
全力で叫ぶノリスに応えるように。
後ろに控える魔術士たちが解き放つ火球が、戦場を飛び越えて、ニャッコと巨大魔狼の間に着弾。爆風が舞い、炎が噴き荒れて、今度こそ群狼たちの足が完全に止まる。
「うおおおおおお!」
爆撃によって、ホーンウルフたちが怯んだ隙を見逃さず、ノルンが相対していた魔狼の一匹を斬り伏せた。すかさず全力疾走。群狼が連携を取り戻す前に、未だ地面に這いつくばるニャッコと、彼女を守るように鍬を構えるナーレのもとへと駆けつける。
「馬鹿! 男が無茶しすぎだよ!」
「ぼ、僕だって、戦えます! 皆さんと一緒に、村を守れるんです!」
最優先で確保した青年を背中越しに叱りつけるが、返ってきた声音に反省の色はなく、むしろ戦いの興奮に激っている。マズい。戦闘に慣れていない素人の、典型的な躁状態だ。
「……っ、ニャッコも何か、言ってやりな!」
「……ふにゃあ」
理屈で説き伏せられないなら数で押し切ろうと、期待して声をかけてみたものの、地面にペタンと尻餅をついた猫人の少女は、ダメだこりゃと一目でわかる蕩け顔を浮かべていた。
獣人特有の瞳は青年に固定され、その股下が酷いことになっているのが、容易に想像できてしまう。なに呑気に発情しているのだ馬鹿猫と、罵りたい気持ちをノリスは懸命に呑み込んだ。
「……っ! と、とにかくナーレくん、無謀な真似はーー」
「ーーう、うおおおおおお!」「ナーレにつづけー!」「ちぇ、ちぇすとお!」「ちぇすとお!」「ちぇすとですうううっ!」
さらにノリスの忠告も虚しく、身内の蛮勇に触発されてしまったのか、自警団として村の防衛に参加していた若い男たちが、次々と防護柵から飛び出して魔狼たちに立ち向かってしまう。
「うおおお!? ば、馬鹿野郎! 男はすっこんでろ! 死んじまうぞ!」
「……男の、非戦闘員が戦場に立つとか、ありえないですからっ!」
それまで必死に守ろうとしていた村人の暴挙に、冒険者たちは動揺を隠せない。事実、本格的な実践の心得などないであろう彼らは、最初こそ勢いでホーンウルフたちを怯ませたものの、気を持ち直した魔狼によって、見る間に劣勢に追い込まれていった。
「……くっ、皆、とにかく男たちを守れ! 後方に下がらせて、布陣を立て直すんだ! ほら、ナーレくんも下がるんだよ! ここは危険すぎる!」
「で、でも、僕だって!」
「いいから早く! ニャッコも掴まりな!」
「うにゃうっ!?」
渋るナーレを黙らせ、肩にニャッコを担いだノリスは、片手剣で魔狼たちを牽制しつつ撤退を敢行。しかし目前の獲物を奪われまいと、敵意を取り戻した巨大魔狼のもと、連携を取り戻した群狼によってすぐに包囲されてしまう。
戦場の前線でふたたび孤立してしまった冒険者に、四方から、飢えた狼の視線が突き刺さった。
『『『 グルルルルルッ…… 』』』
「……ちっ、いよいよこいつは、本格的にマズイねえ。ニャッコあんた、何か言い残すことはあるかい!?」
「にゃ、ニャーレくんと、一発ヤりたかったのにゃ!」
「馬鹿猫が! 女が土壇場でカッコつけなくてどうすんだい!」
「ぎにゃあ!」
死を目前にして本音をダダ漏らした猫人の尻を引っ叩き、慌ててノリスは、護衛対象に笑みを向けた。
「だ、大丈夫だよナーレくん、アンタのことはアタイらが、必ず守ってみせるから!」
「……いいえ、その必要はありません」
しかしナーレの返答は、予想外のもの。
「もう……大丈夫です。あの人たちが……『あの人』が、来てくれました」
自らの死すら覚悟した冒険者たちを前にして、この場でもっとも非力なはずな青年は、微笑みを浮かべていた。何故なら、待ち侘びていた彼の耳には、いち早く『それ』が届いていたから。遅れて緊張状態だったノリスの耳朶も、その『音』を認識する。
「……ああ、なるほど。そりゃ確かに、もう大丈夫だわ」
「っ!? センパイまで、何言ってるのにゃ!? それにさっきから、にゃんか変にゃ音が……!?」
〝……ぶおおおおん、ぶおおおおん……〟
ニャッコが『変な音』と称したものの正体は、法螺貝である。
一定の間隔で鳴り響く独特な重低音は、それを知る人間たちに安心をもたらす一方で、それを知らずに戸惑う魔獣には、逃れようのない『終焉』を告げていた。
「――チェストオオオオオオオッ!」
次の瞬間、雷鳴の如き咆哮が轟く。
同時に閃光。稲光。紫電を伴った颶風が、戦場を駆け抜けた。
「うにゃ!? にゃ、にゃにごとにゃっ!?」
突然の轟音にニャッコなどは猫耳を伏せ、
ノリスも反射的に閉じていた目を見開くと、
「……」
真っ二つに両断されて血飛沫を撒き、
崩れ落ちる魔狼たちを背景として。
大きな人影が、佇んでいた。
「……皆の者、無事で御座るか?」
ヒュン、と一振りで刀の血を払うのは、
一見する限り、只人の男性である。
年齢は二十の後半から三十といったところ。日焼けした象牙色の肌に、王国では珍しい黒髪黒目。上背はゆうに百九十を超え、その全身を、鍛え抜かれた筋肉がみっちりと覆っている。
男性には似つかわしくない鋼の肉体を包むのは、東方諸国由来の着物。その上から具足や手甲で武装し、肩に担ぐのは、膨大な魔力を纏う東方刀。顔の下半分を般若の仮面で覆っており、露出した上半分の目元には、これまた男性には不釣り合いなはずの、豪胆な笑みが浮かんでいた。
「……だ、誰にゃ?」
「ライヤお兄様!」
「おお、誰かと思えばナーレか」
ニャッコが口にした疑問には、和装の大男に代わってナーレが答えた。面識があるらしい二人の遣り取りに、薄々とそのことを察していたノリスはともかく、意中の男の視線を完全に奪われてしまった猫人の少女などは、ギョッと目を剥いている。
「にゃ? ニャーレくん? にゃ? にゃにゃっ!?」
「然してナーレよ、何故、オヌシがこのような場所に?」
「もちろん、戦うためです! 僕も、戦います! ライヤお兄様のように!」
「……左様か。うむ、良き兵子の顔だ」
そう言ってライヤと呼ばれた男が、ぽんっ。
一回り以上小さな青年の頭に手を置き、
無遠慮に撫でる。
「……うはあああああああ!」
するとナーレはと恍惚の声を漏らし、
腰砕けでその場にへたり込んでしまった。
「……う、うにゃああああああ!」
続いて愕然としたニャッコが、
頭を抱えて絶叫した。
「っ! おいニャッコ、大丈夫かい!? まさか傷口が――」
「……あ、あたまが、パーンってにゃっちゃうのにゃ……」
「……あっ」
やがてノリスも、蕩け顔で彼を見上げるナーレの股間部の膨らみに気づく。ちょうど大男からは死角となっているようだが、ニャッコはそこから、獣人特有の優れた嗅覚で、強い『オスの匂い』を嗅ぎ取ってしまったらしい。脳が破壊されたようだ。
「……ぬ? どうした猫人よ。戦場でそのような醜態、気がぬけておるぞ」
「……後生ですので、そいつのことは無視してやってください、ライヤ・ライヅ様」
「おお、ノリス殿もおられたか。これは重畳」
「……っ」
ごく自然に。
男の口から自分の名が漏れたことに、
今度はノリスが驚き目を見開いた。
「……あ、アタイなんかのことを、覚えておいでで?」
「無論で御座る。戦場を共にした兵子のことを、忘れるものか」
「……っ!」
確かにこのオリガミエ領で長く活動を続けている冒険者のノリスは、何度か彼の率いる魔獣討伐に、冒険者ギルドの依頼として参加したことがある。しかし言葉を交わしたのはせいぜい挨拶程度のもので、冒険者ランクでいえば中堅とはいえ『彼ら』からすれば有象無象に過ぎない自分のことなどを、こうして認識してくれているなど、想像すらしていなかった。
ぶるりと、背筋が震える。
「こ、光栄であります、ライヤ・ライヅ様!」
「うむ。ではこの場のことは、オヌシらに任せるぞ」
予期せぬ言葉に、胸を熱くして息を詰まらせる冒険者に力強く頷いて。
チキリと、般若面の大男は手にする刃を、
再び森から溢れ出してきた魔狼に向けた。
「……僭越ながら後の戦いは、拙者たちが引き継ぐ」
〝ぶおおおおん、ぶおおおおん〟と、鳴り響く法螺貝の音は、すぐそこまで近づいてきている。
昇る朝日に照らされ、地面を揺らすのは、
戦馬の嘶きと蹄の合唱。
逞しい馬に跨るは、いずれも一騎当千と称される、ライヅ一門の高妹たち。
バサバサと、風を受けて彼女らの背に翻る軍旗は、黒地に金の刺繍。真円の中に描かれた菱形の、左上部と右下部がそれぞれ上と下に伸びて外円部に届き、簡易的な雷の記号を模したとされる、ライヅ一門の稲妻家紋である。
「……すううう」
神々しきそれらを背に、
一度、息を深く吸い込んで――
魔獣が蔓延るこのオリガミエ領において、
最強派閥の一角と称される、ライヅ一門。
その頭首として名高い、
世にも稀な偉丈夫の剣聖、
ライヤ・ライヅが、獰猛に吠えた。
「ーーチェストおオオオオオッ!」
【作者の呟き】
貞操観念逆転世界の『お兄様』 → 一般作品における、所謂『お姉様』と解釈していただければ。