第二幕 見習い騎士の受難 ⑤
〈ミルクト視点〉
「……ちぇすと」
それまでいまいち掴みどころのなかった男装の大鬼人が、聞き慣れぬ言葉を漏らしたと思った次の瞬間、自分でも最早何を言っているのかわからないほどに乱れていた見習い騎士の心が、たったひとつの感情に塗り潰された。
それは恐怖。
濃密で圧倒的な死の気配。
(……ぴっ!?)
それを頭で自覚する前に、蛇を眼前にした蛙の如く、拘束魔法でもかけられたかのように、肉体が硬直した。
思考が加速する。
走馬灯だ。
しかし生きるための最適解が導き出される前に、瞬きの間に距離を詰めてきた鬼人の拳が振り下ろされて、すでに眼前まで迫っている。
あと一呼吸の間も無く迎える末路が、
脳裏に鮮明に描かれた。
(死……っ!)
耐えかねてミルクトは、目を瞑った。
――ドウッ!
同時に横手から、衝撃。
一拍遅れて、暴風。
最後に轟音。
(……っ!?)
恐怖に侵されていた心が、
今度は混乱で埋め尽くされる。
(な、何事ですの!? いったいなんなんですのっ!?)
困惑の大波に呑み込まれたあと……ふと。
台風の目のような凪があって、
そこでようやく少女は気づく。
(あ、あれ……ワタクシ、まだ生きてる……?)
どころか、覚悟していた痛みすら感じない。
それはおかしいと、自分の身体に意識を割いて……ようやく己が、何者かに『抱き支えられている』ことに気がついた。
(ふ、ふええええええっ!?)
驚き、思わず目を見開く。
眼前には、上質さを感じ取れる和製の衣服が広がっていた。
肌感触の良い布地に押し付けられていた頬からは、幾重かの薄布越しに感じる、鍛え抜かれた肉体の存在を感じらる。
反射的に息を吸い込んだ鼻腔には、衣類に染みついた香木の香りとともに、嗅ぎ慣れない――しかし雌の本能を刺激する『匂い』が、流れ込んできた。
(ふぁ!? な、何ですのこの匂い、脳が痺れりゅうううう……っ!)
熱く、厳かに、しかし優しく包み込んでくる異性の香りに、ただでさえ種族特徴で優れた嗅覚を持つ免疫のない獣人は、一瞬で頭を昇天させた。
抱き抱えられ、口端から涎を垂らす少女の耳に、頭上から野太い男の声が降り注ぐ。
「……そこまでだ、ハル。正気に戻れ」
「え、あ、うっ……ライ兄様あ……」
「……はっ!?」
ミルクトも正気に戻った。
(あ、そ、そうだ試合! ワタクシ、決闘をしておりましたの!)
慌てて胸元から顔を引き剥がせば、見上げる視線の先には、おどろおどろしい般若面に覆われた顎先がある。
何となく察していたが、やはり自分を左手で抱き支えているのは和装の大男、ライヤだった。
そして彼が反対側の右手で受け止めているのは、先ほどまで打って変わって『活きた』表情を浮かべる、大鬼人の拳である。
「……ハルよ」
「……っ! は、はい、ライ兄様!」
静かに、重く、響いた男の声に、
またしても男装少女の表情が一変。
予期せぬ驚愕から、
緊迫を帯びた恐怖へと転じる。
そんな少女を赤子のように無垢だと感じる反面で、先ほどまで彼我の力量差に慄いていた身としては、こんなにも容易く彼女の心を揺らす存在に、畏れのような感情を抱いてしまう。
(い、いったいこの大男、何者ですの……?)
恐怖からの解放。
理解し難い現実に対する動揺。
間近に感じる、肉親ではない異性の存在。
そうしたものが混じり合って『トウクン、トウクン……』と心臓を高鳴らせる騎士見習いを抱き支えたまま、頭上で大男と少女の会話が続く。
「家紋を貶され、激怒したお主の心意気は、家長として誇らしく思う。しかしそのために果し合いの場で正気を逸した挙句、節度を欠いた行いに出たことは、武門の師として許容できぬ。よってこの試合、お主の負けだ」
「そ、そんな、ライ兄様……だってそいつが、ライ兄様から頂戴した髪飾りを、に、似合わないって……っ!」
「されど言葉戦は、お主だって仕掛けておっただろう。それを仕返されたからといって難癖をつけるのは、武士の矜持に背くものぞ」
「え? ぼ、ボク、べつにその子を、貶したりなんかしていませんよ……?」
「……しておったのだ。エルたちに言わせれば、な」
「……?」
大男の言葉に首を傾げて。
眉根を寄せ、口先まで尖らせて、納得のいかない表情を浮かべる男装少女。
「とはいえ、人の美観など千差万別。少なくとも拙者はその髪飾り、お主によく似合っていると思うぞ」
「……っ! は、はい、ありがとうございますライ兄様!」
そうした困惑の表情は、たった一言で。
いとも容易く、満面の笑顔へと転じた。
「ライ兄様から下賜されたこの稲妻家紋は、ボクの誇りです!」
「……っ!」
そうしたふたりの会話から。
ミルクトは遅れながら、先ほど彼女が激昂した理由と、己の無自覚な発言の意味を理解する。
(〜〜〜っ! さ、最低ですの、ワタクシ……っ!)
ミルクトとて、敬愛する父親からもらったプレゼントを侮辱されれば、我を忘れて怒り狂うだろう。それは至極当然のハナシだ。
つまり非は、自分にある。
そのうえ貴族という立場に気を遣われたのか、勝敗すら譲ってもらったとなれば、胸に感じる羞恥はいやにも増すばかりだ。
とはいえここまで忖度されてしまった以上、それを無碍にすることは、それこそ相手の面子を潰す行為。結果、何も言えずに渋面を浮かべるミルクトに、かけられる新たな声があった。
「……ところでミルクト様。貴方はいつまで、そうしていらっしゃるのでしょうか?」
背後からの問いかけは、可憐で、慎みを持ち、気品さえ感じさせた。
目で見ずとも『美』を確信させる美声……
なのだが。
不思議と声音から温度が感じられず、ゾクリと、聴く者の背筋を粟立たせた。
「ぴっ!?」
「そうそう、仮にもゴ立派な騎士サマなんスから、いつまでも女が男に抱かれてないで、さっさとお館サマから離れるっス。しっし」
いつの間にか。
情けない悲鳴をともに振り返れば、そこには笑顔を……目が全く笑っていないが……浮かべる、精人の少年と少女の姿がある。
ただし両名から伝わる『凄味』は凄まじく、なんなら先ほどよりも明確な『死』の気配すら帯びていた。
精魂果てていた少女の身体から、
ガクッと力が抜ける。
「おっと」
その身体を、大男がさらに力強く、
労わるように抱き支えた。
必然的に、無駄に大きな胸部を鎧ごと押し付けてることになってしまい、ぐんにょりと潰れるが、不可抗力とはいえ女が男にそのようなものを押し付けてしまった非礼を詫びるより先に、ギリギリと、耳朶に届く不吉な歯軋りがあった。
「……うん、これはチェストしてオッケーっスね!」
「兄さんどいてください。それをチェストできません」
「ひっ、ひいいっ! な、なんなんですの!? なんなんですのおこの人たちっ!?」
「落ち着けふたりとも。このようなもの、拙者は気にしておらぬ」
「はあっ!?」
常識的に鑑みてこちらに非があるとはいえ、異性から『このようなもの』扱いされて、ミルクトは反射的に真顔で問い返してしまう。
すぐにその視線が、自分ではなくそのもっと下…………己の股と大男が接している部分に広がる『染み』であることに気づいて、かああああと、頬が沸騰した。
「……お気に召されるな。命の危機に際しては、ごく自然な現象で御座る」
「……っぴ、ぴいやあああああああああっ!」
訓練場に、このあと散々と身内から『お漏らし騎士』と揶揄される、少女の悲鳴が響き渡った。
【作者の呟き】
汚れたライヤの着物は、エルクリフがしっかりと『洗浄』しました。




