手記より
――曾祖母の七回忌。そこからさらに一年が経った。
私は来年の3月、通っている高校を卒業する。その前にこの冬大学受験がある。
なんとなく決めた進学という進路。家族は曖昧な私をずっと心配している。
『やりたいことはないのか』
『本当に進学で良いのか』
『もっと真剣に大学を選ぶべきだ』
彼等が私に向かって吐き出すこのところの言葉が大抵、尤もな話であることは十分承知済みである。
しかし私にもわからないのだから仕方がない。自分のやりたいことが何なのか。
本当にあの大学でいいのか。基、本当に大学進学で良いのか。
私にもわからない。別に良いだろうなとは思う。それで平穏に暮らしていけるなら。
「やりたいこと、か」
時折こうして一人、思い出したように呟いてみるけれど。
『やりたいこと』と言われると、はっきりした職業的なものは思いつかない。
私には何が向いているんだろう。
以前学校で受けた職業適性診断。
私の『やりたいこと』を見つけるいい機会になるのではないかと内心期待していたが
最も私に適正と判断されたのは『看護師』だった。
二番目は『獣医』。
三番目に『学芸員』。
四番目はなぜか『ネイリスト』だった。
どれも想像はつく。だがやはりピンとは来ない。
「手、止まってんぞ」
隣から届いた声にハッとする。
「すまんすまん」
「お前が言ったんだろ?一緒に勉強しようって」
「ええ、だって芹沢理数得意でしょ。私は理数苦手でしょ、んでもって私は英国が得意で、芹沢は苦手。これはどう考えても神様が一緒に勉強しなさいって言ってんじゃん」
「なんだよその屁理屈」
「屁理屈じゃないでしょー。実際点数伸びてるし。利用し合おうよ、ここは」
「それは認めるけど。お前さっきから読書感想文しか手つけてねえじゃん」
――俺いらないだろ、どう考えても。
死ぬほどクーラーの効いた図書館に芹沢の低音はよく響く。ふと視線をカウンターにやれば、司書らしい中年女性が眼鏡の下で鋭く私たち二人を睨んでいた。
今日は夏休み。前期補習が昨日終了したばかりなので、実質初日。
この男―――芹沢とはあいにく三年間同じクラスで、彼は私にとっては一番仲の良い男友達(だと認識している)。
馬が合うといえばそれまでだが、私たちの関係はこの一言に尽きるのではないだろうか。
思春期の男子高校生がもつ特有の気怠さを人一倍滲ませた男だが、ブツブツ言いながらもこうしてちゃんと私の約束にノッてくれているところを見る限り、案外とっつきにくいヤツでもないことに間違いはない。
私も、昔から人とは合わない趣味を持った子供だった。
気がつくと私のまわりには誰もいなくなっていて、悲しいことに、人一倍マセたガキだった幼い頃の私はそれを黙って受け入れた。
芹沢は、そんな私にできた大切な『友人』だった。
「課題図書にするって言ってなかったっけ、お前」
「うーん。そうするつもりだったんだけどね。気になる本があって」
「へえ…どんなの?」
「これ」
私の手元を覗き込む芹沢に二冊の本を紹介する。
「ひとつは今年の本屋大賞受賞作。本嫌いの芹沢も知ってるようなやつ」
明るい色の表紙。なにがなんだかわからない題名だが、中身はそれなりに泣けると評判の一冊だ。
「ああ、知ってるわこれ。母さんが読んでた。面白いって」
「そうそう、…んで、もう一つがこれ。私的本命」
「『17歳、反戦論を説きたい』」
「うん。めちゃくちゃそそるよね」
「おおやべえ」
芹沢はそう言って、よだれを拭う仕草をしてみせた。私もそれを見て笑う。
やっぱり、私たちは趣味が合う。
「でも読書感想文書くってなったら、絶対にこっちのほうが書きやすいの」
指差すのは本屋大賞受賞作。大衆受けというやつだ。
「私ら受験生だし。そんなに読書感想文に時間もかけてられないしね」
「ふーん…」
「なに、その反応」
「いや、絶対こっちのほうが面白い」
今度は芹沢がもう一方を指差す。
私はそれと同時に、彼に向かってにっこり笑ってみせた。
「なんだよ…」
明らかに引き気味の芹沢。私は待ってましたと言わんばかりに両腕を広げ、彼の首にキツく巻き付ける。
「ゲッ、なんだよ、離せ馬鹿っ」
「私はね…その言葉を待ってたんだよ!」
そう。
やっぱり芹沢だ。
私が求めていた答えをくれた。
私たちによっていっそう騒がしくなる館内。先程まで静観を決め込んでいた司書が、カツカツとこちらに歩いてくるのが見える。
「芹沢、逃げるよっ」
「は!?どこに!」
「んー、私の家?」
「はっ、ちょ、おい!」
――――――――――…
「お前は急すぎるよ、いつも…」
胸を激しく上下させる芹沢にお茶を出せば、彼は緩く失笑した。
「あはは、ごめんごめん」
芹沢に、見せたいものがあって。
私も緩く芹沢を見つめ返す。芹沢は表情ひとつ変えず、しかし私には、彼が少しだけ眼球を震わせたようにも見えた。
私は二冊、古びた表紙の分厚い書物を彼に差し出す。
「何これ」
「おおじいちゃんの日記」
「おおじいちゃんってお前…」
「私の曽祖父に当たる人。硫黄島で戦死したんだって、前に話さなかったっけ?」
「……ああ、そういえば、近衛兵だって言ってたな。そういえば」
「まさか芹沢、そこまで信じてなかった?」
「まあ、あの…疑わしいな、とはちょっと」
「酷いなあ。まあでも気持ちはわからんでもない」
元はもう少し鮮やかな赤色だったのだろう、芹沢が手にした2冊には『紀元二千六百年』という文字が霞んで浮かんでいる。
――8年前、私が10歳の頃。一家の大黒柱であった曾祖母が亡くなった。
危篤の連絡から3時間なんとか堪えてくれた彼女の死は親戚全員で見守って。幸せそうに亡くなった。
死因は老衰であった。
その死の間際、彼女が突然、『蛍、蛍』と私を呼んだのである。その時手渡されたのがこの2冊であった。彼女は、私がかねてより温めていた“戦争”への興味を知っていた。
結局直後に息を引き取ったため、バタバタしてしばらくは日記に手を触れることができず、そのうち頭から抜け落ちていた。そうして1年ほど後、すっかり忘れていたその2冊の存在を思い出した。
なにかと思い中を開いてみれば、それは誰かの日記らしく、ざっと見て記録の中に頻繁に出てくる『マサ子』や『衛兵』、『中隊』のワードにピンと来た。
これは、陸軍時代の曾祖父の手記なのだと。
それを理解した瞬間身体中が震えだした。武者震いかもとも思ったが、それ以降なぜか日記に私の手は伸びなかった。
私にとって、というか下手すれば世界にとって重要な文献となり得るであろうその2冊に興味がないというわけではない。寧ろ逆だ。私にあるのは、溢れ出るほどの好奇心。
読みたいのだ。どうしても。
しかしその思いに反するように身体も心も硬かった。
6年の熟考の末、今日芹沢を家に連れてくることを思いついたのだ。
図書館での勉強もすべて口実だった。彼ならば、私と共にこのページをめくってくれると思った。
私と同じ、“戦争”を知りたい彼ならば。
「芹沢」
「…なんだよ」
「読もう、これ一緒に」
「いや、そりゃあ読むけど」
「芹沢じゃないと駄目なの」
「は?」
「多分、ここに書いてあることは私たちが知るよりもっとずっと重くて、もっとずっと素敵なことだと思う」
「それでなんで俺じゃなきゃ駄目なんだよ」
「『戦争』、見つけに行こう」
「はあ?」
「私たちの戦争。見つけに行こう、一緒に」
「あー、はいはい。わかったよ」
「決まりね」
「…つけ込むなよ」
なにやらボソボソ小さく悪態をついているらしい芹沢を横目に、私は日記を開く。
そこには
暗く、冷たい時代の日本を懸命に生き抜いた一人の軍人と
彼を生涯愛し続けた、一人の女性の物語が綴られていた。