追憶
――2014年、夏。私は戦争を知った。
きっかけは何だったろう。よく覚えていない。
ただ怖かった。眼前を埋め尽くす恐怖の感情が、私の脳を嫌というほど支配した。
それは今も消えてくれない
鮮やかな、皮肉めいた風景。
「――お客さん、どちらから?」
「北陸から来ました、旅行に」
ちょうど今から70年前、広島に原子爆弾が投下されたその日を選んだことに、特に理由はなかったと両親は言う。
「遠かったでしょう。お疲れさまです」
「いえいえそんな。広島にはいつか来たいと思ってたんです、子どもたちを連れて」
――小学校3年生の夏である。広島へ家族で旅行にでかけていた。
母は広島の出身だった。私は、まだ9歳だった。
「へえ。奥さんが広島出身で」
「そうなんです。もう両親は他界しているので実家もありませんが」
「どこの出身で?」
「廿日市です」
「あら、うちも廿日市なんだよ」
「ええ、運転手さんも広島ですか?」
「んーにゃ。あたし自身は関東の方で、奥さんの療養で広島に越してきたんだよ。奥さんの地元がそのあたりで」
男の人なのにどうして“あたし”だなんて一人称を使うんだろう。
“んーにゃ”ってなんだろう。
はつかいちってどこだろう。
分からなかった。9歳の私にはまだ何も。
無知は罪だということも。
「タクシーの運転手なんてやってるとね、色んなお客さんが乗ってくるんだけど」
前方からはずんだ調子の声が飛ぶ。今度は父が身を乗り出した。
「皆さん口を揃えて言われるんですよ。『いい天気で良かった』って」
「へえー」
「そうなんです。広島は晴れるんですよ、8月6日だけ、絶対に」
「そうなんですか」
「見せつけるような青空が、少しうざったいくらいにね」
運転手さんが笑って言った。父も呼応するように笑った。
どうして、晴れがウザいんだろう。
呆ける私の横で、兄がきゃっきゃと笑っていた。
「そろそろ着きますよ」
「はい」
「平和記念公園で良かったね?」
「あってます」
――広島市、平和記念公園。
3階建ての資料館が仰々しくそびえ立つ。私は何となく身のすくむ思いがした。
足元をひゅっと掬われたような
風に頬を、優しく叩かれたような。
そんな気がして、膝が笑った。
「ありがとうございましたー」
「はい、丁度頂きますありがとうございました」
私が閉めようとタクシーのドアに手を掛けると
「お嬢ちゃん、勝手に閉まるから大丈夫だよ。ありがとう」
運転手さんの禿げ頭が私へと顔を覗かせた。
私はペコリと頭を下げ、母を追った。
――これは後に知ったことだが
あの日運転手さんが言っていた『必ず晴れる』という根拠の欠片もないセオリーは、強ち間違いというわけでも無かったようであった。
晴れが6割以上、曇りと雨が2割ずつ。
無論、雪は降らない。
私はそれを面白いと思った。純粋に。
だから余計、あの青空が頭を離れてくれなかったのかもしれないが。
白々しい興味が湧いたのである。
この人はどのようにして亡くなったのだろう。敵はどうしてこの街を襲ったんだろう。
どうして日本は戦争をしようなんて言い出したのだろう。
どうして見えなかったのだろう。こういう風になる少し先の未来が。
終戦記念日は、どうして“終戦”なのだろう。
どうして“敗戦記念日”じゃ駄目だったんだろう。
…それじゃあ、記念日に出来ないか。
可哀想。可哀想だな。皆、皆。
この人なんてまだ若いのに。この子なんて、まだ子供なのに。
可哀想。とても。
私は良かった。この時代に生まれて良かった。
知っていた。
こういう気持ちを、“白々しい”と言うことくらい。
私はしばらく前に立って見つめていた。
――『被爆者再現人形』
水ヲクダサイと書かれたあの絵を思い出しながら。
「蛍ー、行くよー」
「…」
彼等の声に耳を傾けて。可哀想、とひたすらに呟いていた。
私の、人生最大の汚行である。