「スキル生えた」から考える表現の話
ある作品を読んでいて、「スキルが生えた」という表現が使われていました。
その作品は主人公による一人称で描かれているもので、生えたという表現も地の文、主人公による語りです。
つまりその作品の主人公にとって、スキルは生えるものであったということになります。
スキルものにおいてスキルの扱いは様々で、登場人物がスキルをどのように認識しているかというのも作品によって違うでしょうし、場合によっては作品内でも人物によって違ってくるでしょう。
ということは登場人物がスキルを手に入れることをどう表現するかによって、その世界におけるスキルの扱いや、その人物のスタンスが見えてくるのです。
スキルが生える。スキルを授かる。スキルを獲得する。スキルを手に入れる。スキルを得る。スキルを覚える。
よく見るのはこんなところでしょうか。
このうち特徴的なものは「スキルを授かる」でしょうか。
この表現は上位者によって与えられるものであるということが背景にあると察せられます。
スキルが神様によって与えられるものである、と信じられている世界ではこの表現がふさわしいかもしれません。
また、神話でそう言われていて宗教権威が主張している世界であれば、この表現を使うものが神職関係者であるとか信心深いことを匂わせることができるでしょう。
「獲得する」「手に入れる」「得る」あたりはニュートラルな表現ですが、勝ち取るものであるとか、運よくだとかそういったニュアンスが入ってくるかもしれません。
また、一種の道具であるという認識が暗に見えるでしょうか。
意識して手に入れようとすることができるが手間がかかるとか運がからむとかそういうイメージ。多くのものと同じもの。
「覚える」なんかは努力によって得ることができるもの、というイメージが追加されるでしょう。
「生える」はどうでしょうか。
生える物といえば草、農作物、髪の毛などでしょうが、農作物などはどちらかといえば育てる物ですし、やはり草、それも自然にあらわれるものというイメージが強いように思えます。
その裏にあるニュアンスは、人の力でコントロールするものではなく勝手にでてくるものといったところでしょうか。
「得る」などよりも、より運任せで誰かの意図が(あまり)介在せず勝手に結果が出る、というような。
一歩踏み込んで、スキルを覚える世界でスキルが生えた、などという人物がいたらどうでしょう。
これは例えば、「今回のテスト全然勉強できなかったわー。でもそこそこ点とれたわー」のような、努力を恥ずかしいと思う年頃の露悪的照れ隠し兼自慢兼予防線が隠れている、という表現になりえるでしょう。
あるいは、スキルを手に入れるのに努力などいらないのだという確固たる信念を持つ人物であるとを示すこともあり得ます。
文脈と行間で同じ表現でも変わってきますね。
同じ現象の表現でも、使いわけによってさまざまな意味を含ませることが可能です。
同じ表現でも、使い方によって異なる意味を持たせることが可能です。
いつも使っている表現をちょっと見直してみるのも面白いのではないでしょうか。
web上の類語辞典などなかなか便利です。含むニュアンスまで記載してくれているものもあります。よかったら利用してみてください。