#2 鏡(1)
「おじいさん、落とされましたよ?」
通りをもう少し進むと現れるカフェの店長・清水は、前方を歩く7割が白髪の老人にやんわり声をかけた。
けれども男はさきさき進むばかりで止まる気配を見せない。
聞き取りが困難であるのか。ゆえに声のみならず尻ポケットから落ちた鍵の、ガチャンという結構な音にも反応しなかった。
鍵を拾いながらそう予想した清水は、足の速度を早めて男の正面へ回り込んだ。
驚いて立ち止まる人物の前に、もしものために家族が工夫したのだろう。それぞれ音の異なる3種の鈴のついた鍵を差し出した。
「後ろを歩いていて拾いました」
「やあ気づかなかった!ありがとありがと。たまにあるんだよ。その度にこうして迷惑をかけてね。どうしたら防げるかねえ」
「そうですね、手っ取り早く首から下げたり、ベルトやカバンにキーリングという物をつける方法もあります。色々試されてはいかがですか?」
車道に走行車はなく周囲も静か。なのに鈴をつけていても落下に全く気づかなかった人物。それに一度や二度ではなさそうだ。
耳が遠いと確定させた清水は、いつもより声を高めてゆっくり説明。ジェスチャーも交えた。
確かに耳は遠いが、今は聞き取れ理解したらしい。
孫と同年ほどの親切な若者へ目尻のしわをますます増やして二カッと笑いかけた。
「ほうありがとう。若くもないから横文字の変なのより、首から下げる方がいいのかもなあ」
男は片腕を上げて再度の謝礼とし、それを最後にまだまだ背筋のピンと張った姿で歩き始めた。
遅れること数秒。清水店長も彼の背中を見守るように眺めながら、カフェ『小庭園』を目指したのだった。
◆
「おかえりなさい店長。遅かったですね!?」
「ぱう!」
カランコロンとカウベルを響かせ店のドアを開けた清水への、これが第一声。
カウンター内から声を発したのは店員の涼真。そして彼の愛犬で看板犬として店に貢献するゴジラ。
働き者で従順。普段は優しい少年なのだが、かわいい顔は歪んで今はどこか不機嫌そう。パグ犬ゴジラだけがしっぽを振ってご機嫌に出迎えた。
変化は明らか。モヤモヤの原因である『何か』が少年の身に起きたと清水は想定。
さっそく、だが慌てず穏やかに問いかけた。
「どうしましたか?」
「来たんです」
「来た?ああ、もしかして」
語尾を省く清水の脳裏には、とある人物の秀麗な顔が鮮明に浮かんでいた。
定休日の本日水曜日にカフェ客は皆無。なんでも屋の方もいまのところ依頼予約や来客はなし。
となると心当たりはひとつ。涼真の不満も、遊んでもらったであろうゴジラの上機嫌も納得。そう、困ったあのお方の存在だ。
発言はせず、同情を含んだ眼差しのみで清水は気持ちを訴える。
鋭敏な涼真少年は視線の意味を察し、16歳とは思えぬ大人びた仕草で肩をすくめてみせた。
「はい。また広瀬さんに食い逃げされました。これでコーヒー61回目です。店長は何かあったんですか?」
出発前に聞いた帰宅予定時刻より30分遅い。
責めや束縛の意図は少年にないものの、単に文房具を買いに行っただけにしては遅すぎる。興味が湧いて尋ねてみたのだ。
店長はこれまでの出来事を追想しまとめると、先刻の男のときと同様、丁寧に説明した。
「本屋さんで財布を拾いまして、レジに届けたらちょうど持ち主のおばあさんが現れてお礼にと図書カードを譲ってくれたんです。雑貨の会計は終えていましたが欲しい本があったのでありがたく使わせてもらい、帰りにはそこのラーメン屋さんの前でおじいさんが鍵を…」
「そうですか、理由はわかりました。お年寄りと話してたんですね?」
「本当に今日はご高齢の方との縁の深い日でした。知恵袋ですし、持ちつ持たれつで大切にしてあげたいですね」
この意見に反論はなく、涼真も「元気かな」と自身の祖父母を脳裏に思い起こして頷く。
ノスタルジーに浸りかけたそんな時、彼の黒い瞳が窓の外をサッと横切る影を捉えた。
黒猫ラッキーでも鴉のハッピーでもなく、人影の本体は店のドアを開けてカウベル音の余韻のなか明るい挨拶を投じた。
「ハロー、健一アンド涼真君!と、ゴジラも。広瀬君は……今日は不在か。残念」
カジュアルなパンツスタイルで現れた女性は、活動的な服装に違わぬ元気な動作で店内を見回す。
お気に入りであり、かつ本日のお目当てでもある人物の姿は視界になく、それでも明快に残念がった。
「いらっしゃいませ五月さん」
「こんちは五月さん。広瀬さんならさっきまでいたんですけど…」
涼真が説明し、表情の微妙なニュアンスから五月はいつもの悪態を見抜いた。
「あはっまた逃げられたんでしょ!?面白い人。じゃその愉快犯にこれ渡しておいて」
『Say June』とプリントされた紙袋を「んしょ!」と無自覚の掛け声と共にドサッとテーブルに置いた。中身は化粧品一式だ。
広瀬の妻の美羽がこの『清純』ブランドの愛用者で、五月は創立者の孫娘。職権を利用して割引価格で提供していた。
肩書きは美容アドバイザー。そして清水家三男・健一の10歳年上の姉でもある。
ちなみに広瀬の素性について五月は「言動の一風変わった顔のいい日本人」と思うくらいで、特に疑問は抱かない。
なので悪魔のプリンスという非現実な事実は知らぬも、霊感が強いため「彼…何かが違う」と楽しんでいた。
彼女が広瀬を気に入る理由だ。イケメン好きは認めるが、本人曰く決して独身が寂しく構って欲しいからではない。
五月の霊感が活かされたのは、直近では4ヶ月前の3月中旬。
本日と同じ理由で来店していた彼女は、シリアスな表情を見せて「今夜は出そう」と末弟に告げた。
姉の霊感を本人より信用する健一は、夜になって念のため町内のパトロールに出発。だが情報は宝の持ち腐れとなった。
妖気を捉えて動いていたドリーム率いる蝙蝠部隊と巡回途中に遭遇。
案内され現場に駆けつけた時には遅く、妖怪から30代の夫婦の命を救うことができなかった。
妖怪登場は想定外。何とかしたいと思うも戦力差は歴然で術がない。見知らぬ親子の前に佇み守ることしかできずただ無力を痛感。
せめて子供だけは無傷で助けたいと、盾になる覚悟を決めていた。
討伐は普段隠している黒い翼を広げ魔界より現れた広瀬が行った。
美しい容貌のまま顔色ひとつ変えず、空中から投げた槍の一撃と呪文により化け物を消滅させた。
夫婦の子供である生き残りの少年は、いま健一のもとで働いている。働き者で手のかからない誠実な少年だ。
定休日でもエプロン姿の、店長と広瀬を命の恩人と慕う涼真が、五月の時のように豊かな感受性を披露。店先の影を追う。
予想通り開いたドアに向けて、ろくに確認もせぬうちに質問と謝罪を投じた。
「依頼の方ですか?飲食でしたらすみませんが今日は定休日なんです」
一同の視線を浴びたのは制服姿の女子高生。緊張する様子もなく若々しい声を聞かせた。
「えーそうなの!?そこの女の人が入ってったからやってると思ったのに」
7月の炎天下、喉が渇いたのでコンビニを探したが見当たらず、5分歩いて見つけたのはラーメン屋。
けれどさすがに単身で入る勇気はなく、そんな時に前方の女が入っていったのがこのカフェだった。
ミディアムボブの女子高生はそう説明し、健一は自身も外出先でスポーツ飲料を買ったことを思い出した。
「外は暑いですしね、今日だけ特別ですよ?とは言ってもお水と冷蔵庫のものしか提供できませんが」
「え、お兄さん店の人なの!?優しい!」
「店長いいんですか!?」
「ちょっとバイト、店長がOK出したんだから文句言わない!あ、セージュンの袋!もしかして全部化粧品?どうしたのこれ!?」
涼真へ小言と思いきや、テーブルの紙袋をサッと発見。瞳をキラキラさせて覗き込み、次の瞬間には唯一の同性を振り返る。
五月は多感な少女に言える範囲で回答した。
「ここの常連客に頼まれてた商品持ってきたの。こっちにとってもお得意様」
「いいなあ。セージュンってコスパいいって聞くけど学生には高額で手ぇ出せないんだよね。お姉さん関係者なの?どっかで見たことあるような……」
仕事は有能、しっかりこなす五月。でもプライベートではどこかネジが緩んで単純になる。
今も「お姉さん」の素敵な響きにテンションが上昇したようだ。
35歳の女心である。結果気前の良い対応を生んだ。
「化粧水、私の使いかけでよければあげようか。半分以上は残ってるよ?」
「ヤバッ、欲しい!ちょうだい!」
遠慮のなさが逆に気持ちいい。「ありがと!」と受け取り、嬉しそうにビンを眺めて誰にでもなく話し出した。
「うちの母親安いのばっか使ってるし、小遣いをコスメに使う余裕ないしさ」
そうしてトートバッグにビンを片づけると、不満たっぷりのため息を漏らした。
「あーあ、うちのジジババが友達んとこみたいに小遣いくれたらなあ」
「お水です、どうぞ。……厳しいご家庭なんですか?」
エプロンに着替えた清水店長が、テーブルに水を置いて問いかける。
カジュアルな外ハネヘアの学生は、イスから見上げて「どうも!」と謝礼。両手でグラスを握り、またグチの開始だ。
「そうなの。だからこっそり財布から金とったりしてる。内緒だよ?」
「おや、いけませんね」
「かわいい孫にくれないのも酷くない?あ、思い出した。この間満席の電車に乗っててさ、わたし荷物たくさんあって立ってたの。そしたらどっかのババアが当たり前みたいな顔で真ん前のシートに座っててさ。譲ってくれてもいいと思わない?せめて「大丈夫?」とかさ」
まくしたてて更に喉が渇いたようだ。水を飲んで、まだ話を続ける。
「よくしゃべる女だな」と涼真は内心で呟いた。
「メイクなんてしたことないみたいなシワシワの顔でさ、シミもたくさんで妖怪かと思っちゃった。あんな年寄りにはなりたくないなあ」
言いたい放題の女子高生が相手ではお年寄りへのフォローも追いつかないと判断。清水姉弟は黙って苦笑いだ。
このように最強な彼女の次なるターゲットは、選ばれた側は大迷惑のカウンター内の同年代だった。
「ねえバイト、名前と年は?」
「……涼真。高1の16。もう行ってないけど」
「わたし舞花。今年で17の高2だから先輩。学校やめたの?そっか」
偏見も何もなくあっさり受け入れる。でも少しばかり上から目線な二階堂舞花。
この素直な少女がひと月の間に体験する恐怖を予知できる者がいま存在するはずもなく。
後の事件の張本人・清水健一でさえ現在は懲罰など頭の片隅にもない。
10代の男女のやりとりをただ微笑ましく見つめていたのだった。