#1 ハチミツ(3)
ビジネスホテルを出ると、外はすっかり別世界。夕焼けを通り越し、空の闇と街明かりに彩られた景色が宵を知らせる。
平日19時の駅前は帰宅やらこれから出勤の人々で混雑を見せる。
それを傍目に路上でタクシーを拾った店長と店員は、自分たちの勤めるカフェ方面へ向かった。
アカリの身代わりとなり人生初の女装を披露中の店員は、車内でベビーピンクのフレアパンツをこっそり脱いでお着替え。
用意周到、その下にデニムパンツを履いてきていたのだ。
ちなみに上着はブルゾン、靴はスニーカー故か現状維持である。
そしてカフェにはまだ距離のある地点で降車。この近辺に防犯カメラが設置されていないことを把握していたからだ。
タクシーが視界から消えたのを見届けると、ふたりは煩わしいカツラを取って本来の姿に。
清水店長はバッグからハチミツ入りの瓶を取り出し、眺める涼真少年はイチゴのハニーロールが食べたくなった。
しかしそんな甘い妄想をぶち壊す怒声が、瓶の内部から木霊する。
「あたしをどうする気!どこに連れていくのよ!」
「外です」
「外?」
奇妙な薬で体を小さくされ、瓶の中に閉じ込められたアカリ。それでも通常だった頃と同じく思考は働き、ちょこんと首を傾ける。
場所は不明だがガラス越しの景色はすでに屋外だ。言い誤ったとも思えない。どんな意味があるのだろう。
これに関して清水に勿体振る意思はなく、丁寧に説明した。
「ハチミツ漬けのあなたに惹かれて側に虫たちが群がります。人間の男だと思えばいい。嬉しいでしょう?」
「むっ、虫ぃ!?いや、嫌よっ‼やめて」
「浮気性のあなたにはお似合いですよ。ああ、まずは街灯にあんなに虫が。すぐにあなたのもとに来てくれます。では」
いつもの穏やかな口調で語り、清水は蓋の開いた瓶を街灯の根元に置いた。
頭上では灯りに群がる蛾など無数の虫が羽ばたいている。
カブトムシも来るかな、と涼真は亡き両親とのキャンプ旅行を胸中に想起させ、思い出を吹っ切るようにひとつ吐息。歩き出した店長の背中を追った。
瞬時にふたりの後ろ姿へ女の懺悔が飛んだ。泣き声だった。
罪状の把握はいまいちしきれていないが、とにかく謝罪だ。
拳で瓶をドンドン叩いて相手の注意を引きながら、アカリは絶えず涙を流して精一杯声を張り上げる。
「いやっごめんなさい!ごめんなさい!戻ってきて、いやっ‼」
かろうじて聞こえる声に清水は反応し、アカリが好きだった魅惑的な笑みを見せた。
「明日の朝には会いにきます。さようなら」
「待って!行かないでっ!きゃあっ、やっ、いやああぁぁっ!!!」
最後の悲鳴は瓶の中に蛾が侵入してきたから。
今のお人形サイズのアカリ目線では生物学者が論文レベルと喜ぶ新種の超巨大生物だ。
ブンブン両腕を振って払い除けながら、彼女は次々と襲来する未知の恐怖により前ぶれなくふうっと意識を失った。ハチミツの池に全裸の身を沈めて気絶。
この後に訪れる末路は、清水の予言通りとなった。
わざわざ再来する気のない彼は、後片付けを別に譲った。
その延長にあたるものが予言。涼真に語った内容は以下の通りだ。
「鳥さんについばんでもらいましょう。弱肉強食です」
予言者を自覚しているはずもなく、まさか実現するとは現段階で、いや後々まで思いもしない。もっと言ってしまえば結末に興味もない。
このいい加減な予言の的中現場を翌朝目撃したのが、店長たちとは親しい関係にある子鴉ハッピー。
後日ハッピーは動物と会話のできる広瀬に幼さの残るピンク色の口の中を見せながら次のように語った。
「知り合いの鴉が虫まみれの人形みたいなのをくわえてたんス。はじめは…手スかね、少し動いてたんス。けどくわえてた頭の部分を噛み切ると動かなくなったんスよ。雑食のオイラでもあれは食いたくないっス」
不気味なこの話を常連客の広瀬から教えてもらった清水店長は、静かに苦笑。
虫まみれの物体の正体も不明とあって「ハッピーさんに同意です。気持ち悪いですね」と返答した。それだけ。
アカリとの日々で使用したカツラや自身と彼女の衣服は処分済み。
そんな記憶すらとっくに薄れていた頃の話であった。
*
さてカフェ『小庭園』への帰路を涼真少年と歩く現在の清水。
後方で気絶するひとりの女などもはや顧みず、呑気な話題を投じた。
「閉店プレートは下げていますが、広瀬さんが来店しているかもしれませんね」
困り事であるはずなのに、どこか楽しそうな響き。
涼真も事情をよく知る身。本日はカフェ定休日だが鍵を閉めていようと何らかの方法で勝手に入り込む広瀬。
この不法侵入だけでも厄介なのに、店のメニューにこれまた勝手に手をつけたりと、とにかく悩みの種だ。
「あ、そうですね!店長、今日こそ食い逃げの清算してもらいましょう!ダメなら魔王様に言いつけましょう!」
「それは可哀想ですよ。人間界に来られなくなっては哀れです。魔界のプリンスからはお金を頂くか、或いはこれまで通りですかね」
「……店長、お金取る気ないのでは。イケメンに騙されないで下さいね!」
「こちらもおもしろい薬をタダで貰ってますからね。おあいこですよ」
清々しく微笑まれては肩をすくめるしかない。16歳の少年は今夜はサッと諦めて話題を変えた。
店に残してきた愛犬ゴジラが気がかり。
強く成長してほしいと願って付けた怪獣の名前だが叶わず、ドアのカウベル音にも怯える臆病な仔犬なのだ。
そうしてカフェの見える通りまで来たわけだが、涼真がピクリと目元を細めて何かを予感した。
それというのも消灯していたはずが、いまや店内の明かりは通りに漏れて道を照らしていたからだ。これはもう嫌な予感しかしない。
案の定カウベルの響くカフェのドアは『閉店中』のプレートを下げたままあっさり開き、中からはカチャカチャ食器の音。
BGMを切ったフロアで、その目立つ物音は人の存在を顕著に知らせる。
店の関係者ふたり、怖れもせず店内に入ると……。
窓側奥のボックス席に、スーツ姿の見慣れた男。仔犬を膝の上に置いて座っている。
その顔立ちはランウェイを歩くモデルのように端整で、何度見ていようとまずは息を飲むまさに魔性の美しさ。
そして手元には冷蔵庫にしまっていたはずのメロンとレッドクローブ。店内メニューのスイーツに添える品だ。
涼真が目ざとく発見し、ペットを叱る飼い主のような声を上げた。
「また勝手に取り出したんですか!?」
「こんばんは涼真君、清水店長。ゴジ君と留守番してたよ」
「いらっしゃいませ広瀬さん。今日もさすがの美しさですね」
些細ないざこざはすぐに解消。気心知れた顔見知りが集まって、他愛のない話題であっても盛り上がる。
6月の短夜なんてお構いなし。今夜も穏やかな時間の流れが心地よい、カフェ『小庭園』であった。