#2 鏡(5)
娘が原因不明の病で苦しんでいるというのに、一度行った病院で「異常なし」の診断を受けるや両親は普通に出勤。心配もしなくなった。
学生でありバイト未経験の舞花に労働者の苦労や気持ちはわからず、薄情な親だと彼女の方でも冷ややかな眼差しを向ける。
もっとも不在のおかげでこうして外出できたわけだが、膝は痛いし腰を曲げて歩いていると通行人の不思議そうな視線とぶつかり、あらゆる面で想像以上に辛かった。
顔の映る物や人混みは相変わらず嫌なので初めはバスや電車はパス。大変だが徒歩からのスタート。限界がきたら乗り物を利用だ。
途中自転車とすれ違い「あれいいかも」と瞳を輝かせ、でも今の健康状態で乗りこなせるか不安になった。
とりあえずは今後の移動手段の最有力候補だ。
乗り物に頼り慣れていたせいか道を誤った。歩道橋を渡らなくてはカフェ方面へ遠回りになってしまう。
階段疲れるなあ、とグチが出た。人目を避けたり、金をしぶりバスやタクシーを拒んだケチな自分に後悔だ。テンションが下がるも今さら仕方がない。
そびえる建造物を見上げて溜め息を漏らし、覚悟を決めて一段一段ゆっくり進み始めた。
頭上に広がる空の清々しさと、ミディアムボブの髪をそよがす涼風を楽しむ余裕は微塵もなかった。
清水店長は性根を叩き直すとしたが、気持ちは若者の舞花。
この状態になっても老人の苦労を理解しようとも敬おうともせず「なぜ自分がこんな目に」と苦痛としか感じていなかった。
それにいまの彼女に重要なのは別の事柄だ。
「はあっはあっ……涼真に会わなくちゃ。謝らなくちゃ。涼真に……疲れた……でも会わなくちゃ」
やっと橋部分に着き少しの休憩。また歩いて次は下りだ。
上りより足腰への負担が大きい。膝が笑っている。それでも舞花は己を鼓舞して頑張った。
「あーなんでLINE交換してなかったんだろ。涼真何かSNSやってるかな。わたしも夏休みにあのカフェでバイトして、ポニテで浴衣着て涼真や店長と花火見たり……」
年下だけどしっかりしていて誠実で。仕事してる姿は大人っぽくて。可愛い顔なのに時々生意気なところもあって。
でも軽い言い合いができ、退屈知らずの刺激をくれる、一緒にいたい……男子。
涼真へ寄せる彼女の思いは本人が思うより友達以上であったのかもしれない。
けれど彼女がその思いに気づくことは二度となかった。涼真や清水店長と会うこともなく舞花は……。
彼女が最後に見た景色は何だったのだろうか。老眼の進行か、詳細は不明。ただ一段、足を踏み外した二階堂舞花。
前転するように落ちたその音と声は、歩道橋下の国道を走る多くの車によりかき消された。
夏休みをまもなくに控えた学生たちにとって、教室から見上げた今日の空はわくわくを倍増させる青天。
その青空の下で音もなく落ちてきた少女を不特定多数の者が目撃していた。
「わ、おいっ女の子が落ちたぞ!」
「きゃあ!女の子が!」
「救急車っ!」
「動かないぞ!心臓マッサージできる奴っ!?」
◆
今日も穏やかな開店前のカフェ『小庭園』。
準備を終えた涼真が自宅で見た都市伝説のような記事を話題に上げた。
「今朝スマホに怖いニュースが入ってきたんです。10日程前の出来事のようですが、若者風の服を着たおばあさんが歩道橋の階段から落ちたらしいんですけど、複数の目撃者が落ちたのは確かに若い女だったと言ってるみたいなんです」
「集団催眠でもあるまいし、何があったんですかね。確かに怖いですね」
「はい、不気味ですよね。ですかボクには身近な方が大切で、ボクが怖いのはこのカフェの未来です。食い逃げ犯のせいで倒産とか前代未聞ですよ?」
「合計しても3万ほどですから倒産はしませんよ。それが広瀬さんへの許容の理由にはなりませんが」
「広瀬さんこの間言ってました。「ハッピーもタダで食べてるのに僕だけ怒られてる」と嘆いてました」
「鴉のハッピーさんと扱いを一緒にされても困りますね」
「はい。ハッピーが食べているのは家庭ゴミの残飯です。店長が普通のご飯もお裾分けしてますけど、でも比較の対象外です」
「プリンスなのに妙なプライドのないところがあの方の美点ですよ」
「鴉と同類とか食い逃げとか、そこにはプライド欲しいとボクは思いますけど」
「厳しいですね涼真君は。そういえば舞花さん近ごろ来ませんね」
「夏休み中だから部活や講習じゃないですか?ボクも最近思うんです。自分の将来のこととか。夜間学校はどうかなって」
数ヵ月前、高1で中退した涼真。悔いはないが年齢の近い舞花と出会い将来に悩むようになったのだ。
毎日顔を合わせているのだ。もっと早く相談してくれればとしつつ、それを見抜けなかった自身に腹立たしさを募らせる清水。呆れたような吐息を自らへ送る。
だが後悔より先にすべきことがある。眼前の真摯な眼差しに応えた。
「通信制もありますが……ですが涼真君、私は一応大学を出た身です。君の家庭教師くらいはできると自負しますがどうですか?」
「え、我が儘が通るのであればお願いしたいです。友達にお兄さんがいるので捨ててなければ教科書貰えると思います。だけどボクに時間を割いてる余裕は……。お休みの時間が減りますよ?」
「私は君のために色々してあげたいんですよ。身元保証人としてではなく、自分のために」
ふわっと笑った顔は切なく、それは涼真の両親を救ってあげられなかった後悔に端を発した。彼に責任はないのに。
それを打ち消したのは清水本人。いま愁いは不要。さっそく授業の下調べだ。
「涼真君の得意教科は何でしたか?ついでに不得意も聞いておきましょうか」
「理数系は得意でした。英語が苦手で……」
「英会話なら五月さんが堪能ですし、広瀬さんも全世界の言葉が理解できます。あの方の場合魔法の一部かもしれませんが。都合のよい日はふたりにも協力してもらいましょう」
今日も穏やかなカフェ『小庭園』。まもなく開店。
お客様を笑顔でお出迎えし、コーヒーの香りと共に心身休まるアットホームな空間を届けよう。
ルールではなく日々の基本として、自然に心がけるふたりであった。




