第68話:蛇の復命
ドルフィニアの陣が消えた、という偵察兵の報告を聞いたササール候レイモンド=オルフェンは、
――撤退したのか。
と、喜んだが、そうではないということが、すぐに届けられた続報で分かった。ドルフィニアはかなり南に陣を下げた、という。陣を移した場所は、ササール城から行軍して一日はかかるという距離にある。
「どういうことでしょうか」
宰相アルバート=パンダールが、レイモンドのもとにやってきて、そう聞いた。
「退くかまえを見せている、と言いたいところですが……」
おそらく違う、とレイモンドは思っている。もし本当に撤退するつもりならば、わざわざ布陣したりせず、ひたすら自国へと軍を急がせるであろう。または、追撃をうけないために、わざと戦う姿勢を見せて牽制している、とも考えられるが、いずれにしても即断はできず、
「まあ、様子をみましょう」
としか言いようがなかった。
ひとまずレイモンドは偵察兵に、引き続き警戒を怠らないように、と厳命し、ドルフィニアの動向をうかがった。が、一日経っても、二日経っても、ドルフィニア陣には変化がなく、不気味に沈黙したままである。
――撤退するつもりはない、ということか。
ようやく敵の意図が見えてきたレイモンドは、ただちに軍議をひらいた。
ササール城を攻めあぐねたドルフィニアは、こちらが城から出撃してくる機会を待っている。そうレイモンドは予想を口にしたが、その言い方は断定に近い。
「つまり、援軍が到着すれば、我われが迎撃の兵を出す、と思っている訳ですね」
将軍ヒューバート=ヘイエルは、やはり、という顔でうなずいた。ヘイエルも同様に考えていたのである。
「できれば、ドルフィニアの兵糧が尽きるのを待ちたいところなんだけどね」
レイモンドは苦笑いをうかべた。
ササール城にある食糧と、ドルフィニア軍が持ち去った食糧とは、ほぼ同量である。持久戦となれば、多くの兵を抱えるドルフィニアのほうが早く食糧が尽きる。
兵を傷つけたくないレイモンドは、それまで粘るのが最善だと思っているであろう、と見ていたヘイエルは、次のレイモンドの言葉に驚いた。
「ドルフィニアの望み通り、野戦で決着をつけようと思う」
意外に思ったのはヘイエルだけでなく、アルバートも同じだったようで、
「援軍を加えても、敵のほうが大軍です」
と口調に慎重さをまじえて言った。
レイモンドの表情は柔らかい。
「大軍が必ず勝つ、というわけではありません。それに、こちらの将兵は粒ぞろいです。ドルフィニアに決して遅れをとることはないでしょう」
ここまでことごとく策を当てているレイモンドの言葉には信憑性がある。
「わたしもそう思います」
そう言ってヘイエルはレイモンドに賛成した。レイモンドの意向に驚いたものの、そもそもヘイエルも同じことを考えていたので、むしろ、迎撃に出るべきだと積極的に進言するつもりであった。
「敵陣には疲れが見えます。それにドルフィニアは大軍とはいえ、戦いに慣れていません。おそらく、今回の出兵のために急いで徴兵されたのでしょう」
ヘイエルは、そうドルフィニア軍を分析した。たびたび奇襲を行っているヘイエルは、もっともドルフィニア軍と戦っているだけに、実際に肌で感じた手ごたえがある。
そして、その見解は正しかった。
早く出兵したい、と思ったドルフィニア宰相バグアーノは、兵の不足を解消するため、大金を使って兵を集めたのである。にわかに集められた兵たちは、満足に訓練を受けることなく従軍することになった。
――ルーキンであれば新兵も強兵に変えることができるだろう。
そう言ってバグアーノはルーキンを送り出した。これはバグアーノがルーキンに寄せる信頼のあかしでもあるが、同時に戦への暗さでもある。ルーキンはその両方を感じながら兵をササールに入れ、ここまで戦っていた。
ヘイエルはそこまでの事情を知っているわけではないが、ドルフィニア兵と違い、ササールの兵たちは、ここに至るまで数々の困難をくぐり抜けてきた、という自信がある。
「数は少ないながら、われらの兵は実戦で鍛えられ続けています。道を整備し、魔物と戦い、そしてこの城も造った。これだけの経験をつんでいる兵は他にいません」
兵士というものは、戦闘だけを行うものではなく、行軍のための道をひらいたり、川に橋をかけたりと、さまざまなことを行う。そのひとつひとつが組織的な行動のための訓練となりうる。ササール城にすばやく塁を築くことができたのも、ササールの兵たちが積み重ねた経験によるところが大きい。
特にヘイエルは、以前は王立学校の教官であり、また、このササールにおいて練兵の師範もつとめているため、兵の成長が良くわかるのである。
「まあ、どのみち援軍が来れば、迎撃に出なければならなくなる」
レイモンドは苦笑をまじえて、不思議なことを言った。この予言めいた言葉の意味をヘイエルが知るのは、翌日に援軍をむかえたときの事になる。
「では、しばらく待機とします」
と言って軍議を終わらせたレイモンドは、一時の休息のため自らの幕舎にもどった。結局レイモンドは自分の住居をつくらせず、つねに幕舎で過ごしている。
「転居が簡単だし、何よりこっちのほうが落ち着く」
というのがその理由であった。レイモンドは状況に応じて幕舎をあちこちに移していた。酒場をつくるときは酒場のそば、土塁を築くときは土塁のそば、という具合である。はじめはレイモンドの屋敷をつくるべきだ、と諫言していたヘイエルも、ついにあきらめ、何も言わなくなった。
レイモンドは、衛兵にねぎらいの言葉をかけ、幕舎に入った。そこにはすでに人影があった。が、レイモンドはもう驚かない。
「無事だったか」
「この城で再び会う――候のおっしゃった通りになりました。まずはササール城の奪還をお祝い申し上げます」
妖しい笑みをたたえて跪いているのは、いつものように黒衣をまとった蛇であった。蛇はササール城をドルフィニアに明け渡す直前に会いに来たのだが、そのときは報告を聞いている余裕がレイモンドになく、先延ばしにしていた。
「そういえば、話があったんだったな」
蛇の顔を見てそのことを思い出したレイモンドは、寝台の上に腰をかけると、報告をうながした。
「隣に座ってもよろしいですか」
「だめだ」
艶を見せて言う蛇に対し、レイモンドは眉を上げてぴしゃりと言い切った。蛇はそれを意に介するふうでもなく、
「ようやく最初の命を果たすことができます」
と静かに言って報告をはじめた。それを聞くうち、レイモンドはしだいに目を見張り、そして息をのんだ。その内容が、あまりにも驚くべきものだったからである。
あくる日の朝、砦にパンダールの援軍が入った、という報せを聞いたルーキンは、全軍を率いてにわかに出陣し、北に進路をとった。
――必ずパンダールは迎撃に出る。
ルーキンは胸中で強く断言した。
出撃してきたパンダール軍に決戦を挑んで打ち破り、戦況を打開しなければ、この戦いに勝つことができない。そういう決意をもった目で、ルーキンは北を見つめている。
報告によれば、砦に入ったパンダールの援軍はけっして少なくない、という。それでも砦にこもるパンダール兵に援軍を加えたとしても、ドルフィニア軍には及ばない、と偵察兵は口ぐちに言った。ルーキンの予想どおりである。
軍が森にはさまれた隘路を抜け、広い平野に出たところで、先行させていた偵察騎が馳せ戻ってきた。
「パンダールが砦から出撃し、こちらに向かっています。大軍です」
偵察兵は叫ぶように言った。
――いよいよだ。
ルーキンはすかさず陣を展開させて、臨戦態勢を整えた。戦場はこの平野となるであろう。風もなく、決戦の前とは思えぬほど周囲は静かである。
まもなく、パンダール軍の姿がルーキンの視界に入った。
風がわずかに流れはじめた。