第64話:陥落
ドルフィニア軍はササールにあるパンダールの拠点を見て、砦、と思ったが、パンダール側はそれを城、として建設している。
ドルフィニアの猛攻を受けているその城の内部では、ササール候レイモンド=オルフェンが防衛の指揮をとっていた。が、いまだ建設途中である新たなササール城の防衛力はないに等しい。敵を防ぐ唯一の設備といってよい土塁にしても、将軍であるヒューバート=ヘイエルがしつこくその必要性を説いて、ようやく実現したものであった。その土塁も堅固なものであるとは到底いえない。
「本気で守る気があるのですか」
突如として背後から声をかけられたレイモンドは、驚いて後ろを振り返った。
そこには、黒衣をまとった女が不適な笑みをうかべて立っていた。
蛇である。
彼女の身体は、不自然なほどにレイモンドに近い。あわててレイモンドは飛びのいた。
「どうしてここにいる」
ササール城はいま敵の攻撃にさらされている。外から城内に入るのは容易なことではない。
「今さら説明が必要でしょうか」
蛇はそう言って小さく笑った。確かにこれまでも、どこであろうと侵入し、こうしてレイモンドの前に現れている。妙に納得したレイモンドはやや落ち着きを取り戻し、小さく息をついた。
「いま手が離せないんだが、急ぎの用か」
邪険に言うレイモンドも意に介さないように、蛇は笑みを絶やさない。
「落城より急ぎの用か、と言われれば、そうではありません」
「落城か。なるほど、それはそうだ」
他人事のように言うレイモンドは、わずかに笑顔を見せた。それを見た蛇はやはり、という風にうなずいた。
「その落ち着きようを見るに、策がおありだとお見受けしますが」
まあ、と言ってレイモンドは答えを濁す。
「では城内に兵が少ないのも、策のうちですか」
そう言って蛇は周囲を見渡した。城を守る兵は、本来いるはずの数からして、あまりにも少ない。城の防衛力が高くないことを考えると、そこに策があるだろうことは明白である。
蛇がレイモンドの答えを聞かないうちに、突如として馬に乗った宰相アルバート=パンダールが馳せよってきた。
「オルフェン候、そろそろ敵兵に突破されそうです」
つまり、ドルフィニア兵に土塁を越えられそうだ、ということである。特別あわてた風でもないレイモンドはアルバートに向けてうなずくと、蛇の方へ視線をまわした。
「と、いうわけで、私たちは逃げる。きみの馬はないが、どうする」
蛇は小さく肩をすくめた。
「私は自力で逃れることができます。報告は次にお会いしたときに致しましょう」
神出鬼没の蛇であるならば、心配は不要であろう。そうか、と短く言うと、レイモンドは周囲にいた兵に撤退命令を伝えた。
「では、またこの場所で会おう」
そう言うが早いか、レイモンドは馬に乗ると、兵を引き連れて城内を北へと走り去っていった。
結局、ドルフィニア軍を率いるウォルス=ルーキンは、魔物が砦に近づけない、という不気味さに迷いを感じながらも、そのことを頭の片隅に追いやり、攻撃を続行した。
勢いのったドルフィニア兵の攻撃は苛烈であった。果たして、たいした時間もかからないうちに、副将セシル=クロフォードの手勢が土塁を突破した、という報がルーキンのもとに入った。
よし、とルーキンはこぶしを固めた。
「クロフォードがあけた突破口を集中攻撃する」
ルーキンはそう言って、土塁を攻めている手勢の向きを変えて急行し、クロフォードの部隊と合流した。
クロフォードの攻めている土塁には、すでに幾本もの梯子がかけられており、そこから兵たちがぞくぞくと塁を越えてる。そこを守るはずのパンダール兵は防衛をあきらめて潰走したらしく、完全に無抵抗であった。ルーキンは馬を降りると、梯子を駆け上がった。土塁の上から見下ろしてみると、砦の内部にはパンダール兵の姿はなく、先に侵入に成功したクロフォードが手を振っているのが見えた。
「敵はどうやら砦を放棄したようです」
土塁を滑り降りて砦の内部に入ったルーキンに、クロフォードはそう伝えた。パンダール兵がいないのは土塁の上からでもわかったが、まだ砦内のどこかに潜んでいる可能性もある。
「クロフォード殿には砦内を調べていただきたい」
「では閣下は追撃されますか」
クロフォードはそう言って空を見上げた。攻撃開始が日没前と遅かったため、すでに周囲は夜にそまりつつあった。敵を殲滅するには、逃げる兵を追撃するのがもっともよい。だが、それが夜となると話は別で、敵の伏兵に気づくのが難しくなり、かえって苦境に立たされる危険が生じてくる。つまりクロフォードは、いまは追撃するべきではない、と言外に言っている。
その真意がわかるルーキンは、追撃をあきらめようとした。が、そのとき魔王駐留軍のレアン司令が近づいてきた。
「追撃なら我われに任せてもらおう」
「砦に入れたのか」
ルーキンはレアンの姿に眉をひそめた。砦には魔物を寄せ付けない仕掛けがしてあるようにルーキンには見えた。にも関わらず、当たり前のようにレアンは手勢を率いて砦の内部に入り込んでいる。
「砦が落ちれば中に入るに決まっている」
と言うレアンの口ぶりから、本人はルーキンの質問の意味が分からないらしい。
「土塁を攻めたとき、苦戦しなかったか」
とルーキンが聞いても、その時は後方にいた、と言ってやはりレアンは首を傾げている。
――では、狼の魔物が土塁を登れなかったのは、見まちがいか。
そう胸中で思ったルーキンだが、その考えはすぐに打ち消した。見まちがいであるはずがない。とすれば、ドルフィニアが砦を攻め落としたことで、魔物を寄せ付けないための仕掛けか何かが破損し、その効力を失った、と思うほうが自然であろう。とは言え、警戒を解くつもりも、ルーキンにはない。
「レアン司令。追撃は危険だと思う。この砦に留まり、様子をみることにしよう」
ルーキンはそう言ったが、それを受け入れるようなレアンではなかった。
「こんなちっぽけな砦を取って満足か。ここで追撃せずして、いつするというのだ」
と息巻いた。確かに砦を奪取したとはいえ、はやばやと逃げたパンダール兵はほとんど無傷である。
表情に苦さをうかべたルーキンは、クロフォードを見た。クロフォードは追撃に反対であった。
「はじめ敵は籠城のかまえを見せていました。にも関わらず、陥落後の退去が徹底されすぎています。まちがいなく敵の策があるとみていいでしょう」
「またそれか」
レアンは叫び声をあげると、怒りに耐えかねたかのように剣を地に突き刺した。巨大な人狼が怒る姿に、周囲の兵からは声にならない悲鳴があがったが、さすがにルーキンもクロフォードも、レアンの怒号には顔色を変えることはない。しかし問題なのは、こうして将の意見が割れることで兵たちの士気に差しさわりが出ることである。
――どうするべきか。
ルーキンはここでも判断に迷った。思えば、ドルフィニア軍は将も兵もひとしく初陣である。もし歴戦によって鍛え抜かれていれば、その経験が進むべき道を示すこともあるだろうが、ルーキンもクロフォードも、戦という極限状態のなかで見出した、直感、というべきものをまだ信じ切れずにいた。そこにドルフィニア軍の若さがあった、と言えるだろう。
「わかった。では追撃はレアン司令にお任せする。我われは、砦に敵兵が残っていないか見回るとしよう」
ルーキンはあきらめるように言った。
敵が伏兵をしかけていようとも、かならずレアンが負けると決まったわけではない。ルーキンは自らにそう言い聞かせたが、クロフォードは不安顔で、
「よろしいのですか」
と耳打ちした。ルーキンはそれには答えず、
「クロフォード殿は砦の見回りだ」
と無表情に言って歩き出した。それとは対照的に、レアンは勇躍してパンダール兵を追うべく出撃した。
ところが、それとほとんど同時に、意外な凶報がルーキンの元にとびこんできた。
「陣を奪われました」
それは、ドルフィニアの本陣を守っていたミシェル=クロフォードの悲痛な声であった。